竜は流れを裁かなかった
遠島の罪人を運ぶ渡し舟を、代々曳いてきた老竜がいた。裁く力を持ちながら誰の罪も裁かず、ただ聞き届けるだけの渡し守。二百文に満ち足りて微笑む罪人を乗せた夜、竜は初めて沈黙をわずかに破る――赦しでも断罪でもない何かを映す、内省的な人情譚。
一 灰澄川の渡し
灰澄川の川面には、いつも薄い霧がかかっていた。夜明け前の冷えた空気が水の上を這い、対岸の松林を白く滲ませる。その霧の切れ間から、渡し場の常夜灯だけが、ぼんやりと橙色の光を落としていた。
同心の沢井伊織が、この川と関わりを持つようになって、すでに六年になる。月に一度か二度、遠島を申し渡された罪人を京の牢屋敷から灰澄の渡し場まで連れてゆき、そこから先は舟に乗せて下流の御用湊まで送り届ける。御用湊に着けば、罪人は沖ノ島行きの本船に移され、二度と都へ戻ることはない。それが伊織に課せられた役目だった。
灰澄川を下るための舟に、櫓も帆も要らなかった。舟の舳先には太い麻綱が結ばれ、その先には一頭の竜がいた。
代々の渡し役から語り継がれてきたところによれば、その竜は少なくとも三代前の奉行の時代から、変わらぬ姿でこの川を下り続けているという。灰色がかった鱗は霧の色によく似て、翼を持ちながらも空を飛ぶ姿を見た者はなく、いつも水面すれすれを滑るように泳ぎ、舟を曳いた。角は年輪のように幾重にも重なり、その先端はどれも丸く磨り減っている。名はない。渡し場の者たちは、ただ「渡しの竜」とだけ呼び習わしていた。
伊織が初めてこの役目を拝命した日、老練の渡し守である甚兵衛から、竜についてひとつだけ言い含められたことがある。
「あの竜には、妙な力があるという噂がございます。舟に乗せた者の、胸の内の真偽を見抜く力だとか。ですが、私が三十年この渡しに関わってきて、竜が誰かを裁くところなど、一度たりとも見たことはございません」
裁く力を持ちながら、裁かない。その言葉は、伊織の胸の奥に小さな棘のように残り続けていた。
奉行所の裁きというものに、伊織はかねてより、言葉にしづらい違和を覚えていた。罪状の重い軽いは、律の条文に照らして機械的に定まる。だが、その条文の向こう側にある一人ひとりの事情――なぜその者がその罪を犯すに至ったのか、その胸の内にどのような苦しみがあったのか――までを、奉行所の裁きは決して掬い上げようとしない。伊織自身、幾人もの罪人を渡し場まで護送してきたが、彼らの多くは、罰を受けるべき悪人というより、ただ貧しさや不運に追い詰められた末に、逃げ場を失った者たちに見えた。
一年ほど前、伊織はある老爺を渡し場まで護送したことがある。飢饉の年に隣人の蓄えた米を盗み、家族に食わせた罪だった。老爺は舟の上で終始うなだれ、一言も発さなかった。その背を見送ってから、伊織は何日も、己の役目の意味を考え続けた。律に照らせば、老爺の行いは紛れもない盗みである。だが、飢えて死にゆく孫を前にした一人の祖父に、他にどのような道があったというのか。答えの出ぬ問いを、伊織はそれきり胸の奥深くにしまい込み、役目として粛々と罪人たちを舟に乗せ続けてきた。疑いを表に出すことは、同心という身分に許されぬことだったからだ。
伊織がこの役目を継いだのは、父の勘十郎が長らく同心を務め、その職をそのまま受け継いだからだった。父は生前、酒の席でよく、こう漏らしていた。「わしらの仕事は、律の物差しで人を測ることだ。だが、物差しに合わぬ人の心まで、無理やり物差しに合わせて測るのは、正しいこととは思えぬ」。若い頃の伊織には、その言葉の重みがよく分からなかった。だが同心として幾年も勤めるうち、父の呟きが、ひとつひとつ実感を伴って己の胸に降り積もっていくのを感じていた。父はすでに世を去り、今その言葉の意味を確かめる術はない。それでも伊織は、渡しの舟に乗るたびに、父の声を思い出さずにはいられなかった。
その日の朝、牢屋敷の与力から、次の渡しについて短い達しがあった。
「罪人は松吉という男だ。二十七、三十路前の職人崩れでな。罪状は、病に苦しむ実の兄の命を、みずからの手で縮めたというものだ。妙な話だが、牢屋敷の役人たちの間では、近頃ちょっとした噂になっている。松吉という男、遠島を申し渡されてなお、妙に晴れやかな顔をしているそうでな」
伊織は眉をひそめた。兄を手にかけた罪人が、晴れやかな顔をしている。その取り合わせに、彼はうまく像を結べぬまま、渡し場へと足を向けた。
霧の立ちこめる川辺には、いつものように渡しの竜が、舟の舳先の綱を咥えて静かに水に浮かんでいた。金色がかった双眸は、伊織を一瞥することもなく、ただ川下の方角を見据えている。何百年、何千人の罪人をこうして見送ってきたのだろうか。伊織はふと、その眼の奥にどれほどの重みが沈んでいるのかと思いを馳せた。答えの出ぬ問いだと知りながら、彼は今日もまた、その眼を覗き込むことしかできなかった。
二 二百文を抱いた男
牢屋敷から連れ出された松吉は、聞いていた通り、遠島を申し渡された者にはおよそ似つかわしくない、穏やかな顔つきをしていた。痩せた体に着古した着物をまとい、両手を縄で軽く縛られてなお、その足取りに卑屈さはなかった。
舟に乗り込むとき、松吉は初めて渡しの竜の姿を目にして、小さく息を呑んだ。
「これは……大層立派な竜さまで。噂には聞いておりましたが、まさかこれほど間近で拝めるとは」
竜は答えなかった。ただ、綱を咥えたまま、ゆっくりと川の流れに合わせて泳ぎ出す。舟は音もなく滑り出し、両岸の柳が朝靄の中に霞んでいった。水面には千々に砕けた朝日の光が、絶えず形を変えながら流れてゆく。どこか遠くで、水鳥の羽ばたく音がした。
伊織は舳先近くに腰を下ろし、松吉と向き合う形になった。しばらくの沈黙のあと、彼は与力から聞いた噂を思い出し、つい問いを口にしていた。
「そなた、遠島と決まって、随分と落ち着いた顔をしているように見受けるが。都を離れる心細さは、ないのか」
松吉は少し困ったように笑い、それから懐に手をやった。縄の許す範囲で、彼はそこから小さな紙包みを取り出して見せた。
「これのおかげでございましょうな、お役人さま」
包みを開くと、中には二百文の銭が収まっていた。使い込まれた鐚銭が大半で、決して大金とは言えない。だが松吉は、それをまるで宝物のように見つめていた。
「手前は生まれてこの方、飢えと借銭に追われ通しの暮らしでございました。裏長屋の一間に兄と二人、日銭を稼いでは、その日のうちに右から左へ消えてゆく。米屋に借り、薬屋に借り、月末にはまた次の借りで穴を埋める。手元に銭が残るということが、これまでの人生で一度もございませんでした」
伊織は黙って先を促した。舟は緩やかに川の中ほどへと進んでいく。
「兄の卯之助は、手前より三つ上でございました。若い頃から体が弱く、この二年ほどはとうとう起き上がることもできぬまま、床に臥せっておりました。手前は日雇いの普請仕事の合間を縫って、兄の看病をしておりましたが、薬代を稼ぐだけで精一杯。二人して、ただただ痩せ衰えていくばかりでございました。それでも兄は、手前が仕事から帰るたび、痩せた顔に無理やり笑みを浮かべて、『すまんな、松吉』とだけ申しました」
「牢屋敷に入って、初めてお奉行さまから、この二百文をお渡しいただきました。詳しい事情は省きますが、これは手前の犯した罪の始末について、然るべき筋からいただいたものでございます。手前はこれまで、これほどの銭を、誰に借りるでもなく、誰に返すでもなく、自分の懐にそのまま抱いたことがございませんでした」
伊織は、松吉の隣近所についても、ふと尋ねてみたくなった。「そなたたち兄弟の暮らしを、案じてくれる者はいなかったのか」。松吉は少し顔をほころばせた。
「裏長屋のお咲さんという古着屋の後家さんが、時折、余り物の粥を分けてくださいました。手前どもが礼を申すと、いつも『お互い様だよ、松吉さん』とだけ仰って。ですが、あの方とて、決して裕福な暮らしではございません。いつまでも甘えているわけにはいかず、次第に足が遠のいてしまいました。人の情けにすがるにも、限りがございますから」
貧しさとは、単に銭がないことではない。人の情けにすら、遠慮という重石を背負わせる。伊織はそのことを、松吉の言葉から初めて実感として理解した気がした。
松吉は銭包みを、大事そうにまた懐に戻した。
「これだけあれば、島に渡ってからも、しばらくは何とか凌げましょう。手前にとっては、これで十分すぎるほどでございます。ええ、十分すぎるほどに」
その言葉を聞いたとき、伊織の胸に、小さくない衝撃が走った。二百文――市中に暮らす者であれば、さして驚くほどの額でもない。だが、この男にとっては、生まれて初めて手にした、誰にも奪われぬ己だけの富だった。足るを知るとは、まさにこのことかと、伊織は思わず唸った。奉行所勤めの己は、日々どれほどの禄を食みながら、なお満たされぬ思いを抱えていたことだろうか。禄の多寡ではなく、心の在りようこそが、人の豊かさを決めるのかもしれない。そう思うと、伊織は己の役目の重さが、これまでとは違う色合いを帯びて見えてくるのを感じた。
舟の舳先で、渡しの竜がわずかに首をもたげた。伊織の目の錯覚かもしれなかったが、その泳ぐ速さが、心なしか緩んだように感じられた。竜を長年見てきたはずの甚兵衛も、その様子に気づいたのか、綱を握る手をわずかに強張らせていた。
三 鱗に落ちた光
川はやがて、両岸に切り立つ崖の続く難所に差しかかった。この辺りまで来ると、渡し場からはすでに一刻ほどが経っている。霧はいくらか晴れ、薄日が水面に細かく反射していた。
伊織は、これまでの経験から、そろそろ本題を尋ねるべき頃合いだと悟った。役目として、罪人の申し立てをあらためて聞き取っておくことも、彼の職務の一部だった。
「松吉、そなたの罪状について、今一度聞かせてもらえるか。兄の卯之助どのを、みずからの手で、と聞いている」
松吉の表情から、初めて笑みが消えた。それでも、彼の声に取り乱した様子はなかった。
「兄は、病の苦しみに耐えかね、ある晩、みずから剃刀を喉に当てました。手前が異変に気づいて駆けつけたとき、兄はすでに事を為したあとでした。ですが、傷は浅く、兄は死にきれずに、血にまみれながら、なおも苦しみ悶えておりました」
伊織は言葉を挟まなかった。松吉は静かに続けた。
「兄は手前の顔を見るなり、涙を流しながら、こう申しました。『頼む、松吉。この剃刀を、もう少し深く。俺はもう、これ以上苦しみたくない』と。手前は、しばらく動けませんでした。医者を呼びに走ろうかとも思いました。ですが、あの傷では、たとえ医者を呼んだところで助かりはしない、そう直感いたしました。兄の眼を見ているうちに、これ以上、この苦しみを長引かせることこそが、兄への仕打ちであるように思えてなりませんでした」
「それで、そなたは」
「手前は、兄の喉に刺さったままの剃刀に、手を添えました。兄は、それを拒みませんでした。むしろ、手前の手を、己の弱った手で包み込むようにして……気づいたときには、兄はもう息をしておりませんでした。手前にできたのは、ただそれだけでございます。兄の苦しみを、少しでも早く終わらせてやること。それが罪だと申されれば、手前には返す言葉もございません。ですが、あのとき、他にどうすればよかったのか、手前には今もって分かりませぬ」
語り終えた松吉の顔に、後悔とも安堵ともつかぬ、複雑な色が浮かんでいた。伊織は、掛けるべき言葉を見つけられなかった。律の定めに従えば、松吉の行いは紛れもなく人の命を縮めた罪であり、遠島は妥当な裁きということになる。だが、その裁きのどこに、兄弟二人が積み重ねてきた苦しみと情愛への斟酌があるというのか。伊織の胸の中で、これまで押し殺してきた奉行所の裁きへの違和が、抑えようもなく膨れ上がっていった。
そのとき、微かな水音とともに、舟が一瞬、揺れた。
伊織が目を向けると、舟を曳く渡しの竜の背に沿って、鱗の連なりが、淡い燐光を帯びて瞬いていた。灰色だった鱗の一枚一枚に、川底の水草が揺らめくような、青みを帯びた光が滲んでは消え、消えては滲む。それは長くは続かなかった。数えるほどの間に、光はまた元の灰色の鱗の下へと静かに沈んでいった。
舳先近くで手綱代わりの綱を握っていた甚兵衛が、思わず声を漏らした。
「これは……三十年、この渡しに関わってまいりましたが、竜がこのような様子を見せるのは、初めてでございます」
伊織は息を呑んだまま、竜の背から目を離せずにいた。竜は変わらず、黙々と綱を咥えて泳ぎ続けている。何ごともなかったかのように。だが、確かに今、何かが起きた。
甚兵衛は声を落とし、伊織にだけ聞こえるように語り始めた。
「これは私も、先代の渡し守から聞いた話にすぎませぬが……昔、この竜は、罪の真偽を見抜く力をもって、みずから人を裁いたことがあったそうでございます。当時のお奉行は、罪人の申し立てが真か偽かを竜に見極めさせ、そのまま裁きの場で用いていたとか。ある時、竜はその力を頼りに、お信という名の女を偽りの罪人と断じ、火の裁きにかけて処したそうです。お信は、火にかけられる間際まで、みずからの潔白を訴え続けていたと申します。ですが後になって、真の下手人が別に見つかり、お信が無実であったことが明らかになりました」
甚兵衛はそこで一度、言葉を切った。舟べりを打つ水音だけが、しばらく続いた。
「お奉行は己の非を悔い、竜にその力を二度と用いぬよう命じたそうです。ですが、当の竜がどれほどの思いでその日を過ごしたか、記された文書には何も残っておりません。ただ、その日を境に、竜は人前でみずからの力を示すことを、一切やめてしまったのだと。声もなく、ただ黙々と舟を曳く今の姿は、その日から始まったのだそうでございます」
伊織は言葉もなく、甚兵衛の話に耳を傾けた。舟は変わらず、静かに川を下ってゆく。
「それ以来、竜は二度と、みずからの力で人を裁くことをやめたのだと申します。時のお奉行も、竜に裁きを委ねることをやめ、ただ罪人をこの川の向こうまで運ぶ役目だけを、竜に授けたそうです。以来、竜はただ、罪人の語る言葉を聞き届け、川を渡す。それだけを、幾百年も続けてきたのだと申します。真偽を見抜く力は、今も竜の内に眠ったままなのでしょう。ですが、その力をふるうことの恐ろしさを、竜は誰よりも知っているのでしょうな」
裁く力を持ちながら、裁かない。甚兵衛が最初に告げたその言葉の意味が、伊織の中でようやく、深い輪郭を持って像を結んだ。それは怠惰でも無関心でもなく、一度誤った己への、痛みを伴う戒めだったのだ。そして今しがた、竜の鱗を渡った淡い光は、赦しでも、断罪でもない。ただ、松吉の語った兄弟の情に、竜が確かに何かを感じ取った証だったのかもしれない。それを言葉にすることを、竜は選ばなかった。選ばないことこそが、竜の答えなのだと、伊織は思った。
松吉は、竜の様子に気づいていないのか、あるいは気づいていても取り立てて驚く様子もなく、ただ静かに川面を見つめていた。その横顔には、依然として、あの二百文を語ったときと同じ、満ち足りたような穏やかさが漂っていた。伊織はその横顔と、先ほどの竜の鱗の光とを、胸の中で重ね合わせずにはいられなかった。裁かれることを恐れぬ者の静けさと、裁くことを恐れる者の静けさ。二つの静けさは、どこかで通じ合っているように思われた。
四 裁かれぬまま流れる
舟は、やがて御用湊に近い、石積みの船着き場へと差しかかった。ここから先、松吉は沖ノ島行きの本船に乗り換えることになる。桟橋には、すでに水夫たちが幾人か立ち働き、荷を積み込む声が響いていた。
竜は綱を緩め、舟を岸辺へと寄せていった。伊織は縄をほどき、松吉を岸へと促しながら、最後にひとつだけ問うた。
「松吉、島に渡ってからも、そなたはその二百文を胸に抱いて、生きていけるか」
松吉は、少し驚いたように伊織を見つめ返し、それから深く頭を下げた。
「はい。手前にとって、これほどの富はございません。それに――兄の傍らにいてやれたこと、最後まで手前の手で送ってやれたこと、それだけは、誰に何と裁かれようとも、悔いてはおりませぬ」
その言葉を残し、松吉は待ち受けていた本船の水夫たちに導かれ、桟橋の向こうへと歩み去っていった。その背に、もはや迷いの色はなかった。振り返ることもせず、松吉は一歩ずつ、確かな足取りで遠ざかっていく。
桟橋の袂で、伊織は懐から巾着を取り出し、甚兵衛にそっと手渡した。「これを、松吉に届けてやってくれぬか。銭というより、餞別のつもりだ」。甚兵衛は驚いた顔をしたが、何も言わずにそれを受け取り、小走りに松吉を追った。同心の身で罪人に私財を贈ることは、本来褒められた行いではない。だが伊織は、この日ばかりは、律の物差しよりも己の心の動きに従いたかった。松吉が振り返り、深々と頭を下げるのが、遠目にも見て取れた。
伊織は、しばらくの間、松吉の去った桟橋の先を見つめていた。奉行所の裁きは、これからも変わらず、律の条文どおりに人を裁き続けるのだろう。松吉もまた、その裁きから逃れることはできない。だが、あの男が最後に見せた足るを知る心と、揺らぐことのない静かな確信は、いかなる裁きをもってしても、揺るがすことができないもののように、伊織には思われた。
「参りましょうか、お役人さま」
甚兵衛の声に促され、伊織は舟に戻った。渡しの竜は、すでに舳先を上流へと向け、ゆっくりと灰澄川を遡り始めていた。その鱗は、もとの灰色に戻っている。先ほどの淡い光の名残は、どこにも見当たらなかった。
伊織は、竜の背を見つめながら、ふと思った。あの一瞬の光は、竜が松吉の何かを裁いた証ではない。ただ、竜が聞き届け、受け止めたという、それだけの証だったのだろう。裁くことと、聞き届けること。その間には、伊織がこれまで思い描いていたよりも、遥かに深い隔たりがあるように思われた。かつて一度、裁きを誤った竜は、二度と同じ過ちを繰り返すまいと、みずからの力を封じたまま、幾百年もの時をこの川の上で過ごしてきた。それは諦めではなく、むしろ最も重い形の責め、最も静かな贖いだったのかもしれない。
奉行所に戻れば、伊織はまた、次の罪人の護送を命じられるだろう。律の条文に従い、粛々と役目を果たす日々は、これからも続いていく。だが、竜の鱗に落ちたあの淡い光を目にしてから、伊織の中で何かが確かに変わっていた。人を裁く前に、まずその者の声に、静かに耳を傾けること。裁く力を持つ者ほど、その力をふるわぬ勇気を持たねばならぬこと。それだけは、これから先も忘れずにいたいと、伊織は思った。
舟が渡し場に近づく頃には、朝方の霧はすっかり晴れ、川面には昼近い日差しが穏やかに揺れていた。灰澄川の水音だけが、いつものように途切れることなく続いている。竜は何も語らぬまま、ただ黙々と川を遡ってゆく。その背に負うた幾百年の沈黙は、今日もまた、誰にも裁かれることなく、静かに流れ続けていた。伊織は舟べりに手をかけたまま、その広い背が霧の名残の中へ溶けてゆくのを、いつまでも見送っていた。
渡し場に舟を着けたあと、伊織はしばらくその場を離れず、水面に映る自分の影を見つめていた。甚兵衛が竜の顎の下を、労うように軽く撫でている。竜はされるがままに、目を細めていた。何百年もの間、幾千の罪人の物語を聞き届け、それでもなお、みずからは何も語らず、何も裁かず、ただ流れに沿って進み続けてきたその姿は、伊織にはもはや、ただの畜生とは思えなかった。
それから幾月かが過ぎても、伊織はなお、渡しの舟に乗るたびに、あの日の鱗の光を思い出した。奉行所勤めの日々の中で、律の条文だけでは測りきれぬ人の心に出会うたび、伊織は己に問うようになった。今ここで裁くべきは、目の前の者の行いなのか、それとも、その者が背負ってきた道のりそのものなのか、と。答えはいつも、はっきりとは出なかった。だが、竜がそうしてきたように、答えを急がず、まずは静かに耳を傾けること。それだけは、伊織のその後の役目の中で、揺るがぬ指針になっていった。