竜は何も奪わなかった
荒廃した都、羅生門の天井裏に棲む竜は、片腕を斬られ消えた鬼の跡を継いだ者だった。生きるために悪を是とするか——その問いを人格化した竜は、下人の前でただ静かに見届ける。芥川龍之介『羅生門』を翻案した怪異譚。
一 羅生門の下
雨は、もう半刻あまりも同じ強さで降り続いていた。
朱雀大路の南の果てに立つ羅生門は、かつて都の玄関として威容を誇ったというが、今ではその面影を探すのも難しい。幾度となく都を舐め尽くした大火の焼け跡はいまだ生々しく残り、そこへ大地が幾度も激しく揺れ動き、追い打ちをかけるように疫病が家々の間を静かに這い回ってから幾年もが過ぎた。門の丹塗りは剥げ落ち、太い柱には所々罅が走り、崩れた瓦の隙間から伸びた雑草が、雨に打たれて力なく頭を垂れている。日が落ちて久しいというのに、あたりに人影はなく、ただ大きな朱塗りの円柱の陰に、一人の男が膝を抱えて座り込んでいた。
犬丸という。つい五日前まで、とある家司に仕える下人だった男である。
仕えていた家の主が、これ以上使用人を養う余裕はないと言って、犬丸を含めた奉公人の幾人かに暇を出した。当然といえば当然の話だった。都そのものが痩せ細っているというのに、下人一人を食わせる米などどこにもない。犬丸はそのことを恨みには思わなかったが、では明日からどう生きればよいのかという問いだけが、腹の底に石のように沈んでいた。
思えば、この五日で犬丸が口にしたものといえば、道端で拾った枯れた青菜の切れ端と、雨水を溜めて啜っただけのものだった。腹は減っているはずなのに、もう空腹という感覚すら鈍くなり、代わりに手足の先がじんわりと冷えていくのがわかる。都に残った身寄りといえば、幼い妹がただ一人。今は遠縁の家に間借りさせてもらっているが、その家とて明日をも知れぬ暮らしぶりで、いつまで置いてもらえるものか知れたものではなかった。妹のためにも、自分だけは早く何らかの生計を立てねばならない。そう思えば思うほど、犬丸の胸の裡には、ある一つの言葉が黒々とした澱のように広がっていった。
盗人になるか。
その二文字が、雨音の合間に何度も犬丸の頭をよぎった。むろん、答えは出ない。出ないからこそ、彼はこうして誰も寄りつかぬ羅生門の下で、行き場のない体を持て余しているのだった。かつては旅人や商人が雨宿りに使ったというこの門も、今では日暮れとともに人が避けて通る場所になっている。理由は雨風のせいばかりではなかった。
――門の上に、何かが棲んでいる。
そういう噂を、犬丸は幼い頃から幾度となく耳にしてきた。曰く、遠い先代の頃、都に名を知られたさる武人が、この門で恐ろしい鬼と切り結び、その片腕を斬り落としたのだという。以来、鬼は都に現れなくなった――はずだった。ところがその噂には、必ず奇妙な続きがついて回った。鬼が去ったあとの門の天井裏には、いつからか別のものが棲みつくようになった、と。その正体を見た者はいない。ただ、丑三つ時に門の下を通ると、上から低い唸り声のようなものが聞こえるとか、真っ暗な天井の一角だけが、夜目にもわかるほど濃い闇でわだかまっているとか、そうした話ばかりが尾ひれをつけて語られていた。近頃では、日暮れ前から野良犬すらこの門を避けて通ると、老いた辻占いの女が言っていたのを、犬丸は思い出していた。
犬丸自身、この噂を頭から信じていたわけではない。だが、ここ数年で都に流れる怪異譚の多くが、案外、根も葉もない作り話ではないことを、犬丸は身をもって知っていた。夜な夜な辻に立つという白い影も、井戸の底から響くという赤子の泣き声も、探ってみれば大抵は、飢えた野盗か、行き場を失った浮浪の民の仕業だった。人が人を恐れ、人が人を疑うようになった都では、目に見えぬものへの恐れが、目に見える人の悪意を覆い隠す都合のよい衣になっていた。ならば、この羅生門の噂もまた、そうした人の業の言い換えに過ぎぬのかもしれぬ――犬丸はそう思いかけて、しかしすぐに、その考えを振り払った。今の自分に、そんな詮索をしている余裕はない。
犬丸は雨に濡れた石段を見上げ、それから崩れかけた楼閣の暗がりに目をやった。
正直なところ、今の犬丸には、鬼だろうと何だろうと、恐れている余裕はなかった。腹が減れば恐怖も鈍る。それに、もしあの噂が本当ならば――誰も寄りつかぬあの場所には、誰にも奪われていない何かが、まだ残っているかもしれない。そう思う自分の卑しさに、犬丸は自嘲じみた笑いを浮かべた。盗人になるかどうかを迷っていたはずが、いつのまにか、どこを盗むかを考え始めている。人というのは、これほどまでに容易く、自らを説き伏せてしまえるものなのか。
そのとき、頭上でみしり、と何かが軋む音がした。
犬丸は肩をすくめ、円柱にへばりつくようにして息を殺した。雨音に紛れて、もう一度、今度ははっきりと、木材の軋む音が聞こえた。獣が身じろぎするような、重たいものが動く気配。犬丸は喉の奥で唾を飲み込んだ。
――行くか、行かぬか。
その問いは、この夜の彼にとって、盗人になるかどうかという問いと、驚くほどよく似た形をしていた。雨脚がふと弱まった隙をついて、犬丸は懐から小さな手燭を取り出し、火打石を打った。頼りない灯りが一つ、闇の中に生まれる。彼はそれを胸の高さに掲げ、意を決して、崩れかけた梯子に足をかけた。
二 天井裏の骸
梯子は、思っていたよりも頑丈だった。犬丸は腰の刀に手をやりながら、一段ずつ、音を立てぬよう慎重に上っていった。天井裏に近づくにつれ、饐えたような、ひどく甘ったるい臭気が鼻をついた。それが何の臭いか、犬丸にはすぐに察しがついた。行き倒れた者を葬る余裕さえこの都にはなく、引き取り手のない骸は、こうした場所に打ち捨てられていくのだと、以前どこかで聞いたことがあった。
天井裏に上がりきると、そこには十を超える骸が、思い思いの姿で横たわっていた。ある者は口を開けたまま、ある者は膝を抱えるようにして事切れている。手燭の頼りない灯りの中で、それらの輪郭は判然としない塊のようにしか見えず、かえってその曖昧さが、犬丸の恐怖をいや増しにした。奥の方から、もう一つ別の灯りが漏れているのに気づいたのは、しばらく骸の間を進んだ後のことだった。
灯りの正体は、小さな松明だった。それを掲げているのは、一人の老婆である。白髪を振り乱し、痩せこけた体を丸めて、一つの骸の枕元にしゃがみ込んでいる。その手には、抜き取ったばかりらしい長い黒髪が握られていた。老婆の指先は、まるで長年の手仕事のように迷いなく動いており、それがかえって犬丸の背筋を凍らせた。
猿のような、という形容が犬丸の脳裏をよぎった。骨と皮ばかりに痩せた体軀、赤茶けた肌、落ち窪んだ眼窩の奥で、瞳だけが異様なほどの光を宿している。松明の炎に照らされて壁に映るその影は、老婆というよりも、もっと得体の知れない小さな獣のようにも見えた。犬丸は自分の腰にある刀の重みを、これほど頼りなく感じたことはなかった。
犬丸は、自分でも意外なほどの怒りに突き動かされて、老婆の前に躍り出た。
「何をしている」
老婆は驚愕に目を見開き、その場にへたり込んだ。松明の火が揺れ、周囲の骸の影を大きく踊らせる。犬丸は刀の柄に手をかけ、老婆を睨みつけた。それは義憤というよりも、自分の中にわだかまる後ろ暗さを誰かにぶつけたい、そういう衝動に近いものだったのかもしれない。
「死人の髪を抜いて、鬘にでも売るつもりか。恥を知れ」
「お、お許しを……」
老婆は震える声で言った。「これは、悪いことをしているのではありません。この女子(おなご)は、生きていた頃、都の外れで身寄りのない病人たちに粥を配っていた者です。ですがその粥の米は、寺への奉納米をこっそり水で薄めて浮かせたもの。噓をつき、寺を謀ってまで、飢えた者を生かしていたのです」
老婆は骸の顔を覗き込み、乾いた指でその頬を撫でるようにして続けた。
「この女子とて、好きこのんで人を謀ったわけではありますまい。生きるために、やむにやまれずしたこと。ならば、この髪を抜いて売り、私が今日明日を生き延びることも、同じ理屈で許されましょう。責めるならば、この乱れた世の方を責めるがよい」
その理屈に、犬丸は返す言葉を見つけられなかった。老婆の言い分は、道理としては歪んでいる。だが、この飢えた都で、道理だけを頼りに生きられる者などいるのだろうか。犬丸は刀の柄から手を離し、代わりに拳を握りしめた。手燭の灯りが揺れ、その拍子に、犬丸はふと妙なことに気がついた。老婆の背後、幾つも折り重なった骸のさらに奥、屋根裏の梁が交わるあたりの闇が、他の場所よりも一段と濃い。まるでそこだけ、灯りそのものを吸い込んでいるかのようだった。
「婆さん、お前はいつからここでこんなことを」
犬丸が問うと、老婆は初めてわずかに口ごもった。
「さて……幾年になりましょうか。数えるのをやめてから、もう長いこと経ちます。この門の上には、私のような者が、代々仕えてまいりました。誰に言われたわけでもないのに、気づけばここへ導かれ、そして誰も、ここを去ろうとはしない」
「仕える、だと。誰に」
老婆は答えず、ただ闇の奥、あの濃い暗がりの方角へ、ちらりと視線を投げた。犬丸もつられてそちらを見やり、そこでようやく、闇そのものが呼吸をするように、ゆっくりと蟠っていることに気がついた。
三 闇に蟠るもの
「よい理屈だ」
低い唸りにも似た声が、その濃い闇の奥から響いた。犬丸は総毛立ち、手燭を握る手が震えた。声は、地の底から響くような重みを持ちながら、どこか人の言葉のように明瞭だった。
「生きるための噓は許され、生きるための盗みも許される。ならば、そこな下人よ。お前が今宵ここへ上ってきた足取りにも、同じ理屈が働いていよう」
闇の奥で、何か巨大なものが身じろぎする気配があった。手燭の光が申し訳程度に届く範囲の、そのわずか先。そこに蟠っているものの輪郭を、犬丸ははっきりと見て取ることができなかった。ただ、闇よりもなお昏い鱗の照り返しと、爛々と光る双眸だけが、じっとこちらを見下ろしていた。老婆は、その声に怯える様子もなく、むしろ勝手知ったる相手に対するような、奇妙に馴れた仕草で頭を垂れた。犬丸は、その老婆の態度にこそ、言い知れぬ寒気を覚えた。
「お前は……何者だ」
「名など、久しく誰にも呼ばれておらぬ」
声の主は、静かにそう答えた。それから、松明の炎に導かれるようにして、ゆっくりとその姿を闇の中からにじませていった。折り重なった瓦のように鈍く光る鱗、天井を圧するほどに巨大な体軀、幾重にも折り畳まれた翼。それは紛れもなく竜であったが、犬丸がこれまで絵草子や説話で見聞きしてきた、勇壮でも神々しくもない、ただ深い夜そのものを固めたような姿をしていた。
「かつて、この門には鬼が棲んでいた」
竜は、問わず語りに続けた。
「都に名高きさる武人が、その鬼の片腕を斬り落とした夜のことを、お前も噂に聞いていよう。鬼はその夜を境に、二度と都に姿を見せなくなった――そう言い伝えられている。だが、鬼が消えたのではない。鬼が抱えていた昏さだけが、この門に残った」
犬丸は後ずさろうとしたが、足がすくんで動かなかった。竜は続けた。
「この都に住む人々が、日々の暮らしの中で吐き捨てる小さな噓、目を逸らす小さな悪、生きるためだと自らに言い聞かせて選び取る小さな裏切り――そういうものが、幾星霜をかけてこの門に積もり、凝り固まり、いつしか鱗を持ち、爪を持つに至った。私は、鬼が去ったあとの、この門の主だ。鬼を継いだ者と言ってもよい」
老婆が静かに言葉を添えた。
「私どもは、その方に仕えてきたのではございません。ただ、この方の傍らで、人が悪へと落ちていく様を、幾つも幾つも見届けてまいりました。それだけのことにございます」
犬丸は、老婆のその声音に、憐れみとも侮蔑ともつかない響きを聞き取った気がした。竜はゆっくりと首をもたげ、犬丸を見下ろした。
「私は誰かを喰い殺しはせぬ。爪も牙も、そのためには使わぬ。ただ、この門を訪れる者が、自らの内に眠る理屈を掘り起こし、自らの手で悪へと一歩を踏み出す、その様を見届けるだけだ。裁くのは私ではない。お前自身の理屈だ」
犬丸は喉の奥から声を絞り出した。「俺は、暇を出されて行き場を失っただけだ。悪いことなど、まだ何もしていない」
「本当にそうか」
竜の双眸が、わずかに細まった。夜そのものが目を眇めたようだった。
四 鬼を継ぐもの
「お前が仕えていた家司の家では、先月、蔵の勘定が合わぬ騒ぎがあったそうだな。お前が疑われ、暇を出される口実にされたことも、私は知っている」
犬丸の顔から血の気が引いた。それは誰にも話していないはずのことだった。
「な、なぜそれを……」
「この門を上がってくる者の胸の裡は、みな似たような形をしている。隠しても無駄だ」
竜は静かに続けた。
「疑いは事実ではない。だが、お前は本当に何も盗まなかったか。飢えた妹のために、蔵の隅に転がっていた古米をひと握り、懐に入れたことは」
犬丸は答えられなかった。あれは盗みと呼ぶほどのことではない、あんな些細なことのために暇を出されたわけではない――そう自分に言い聞かせてきた記憶が、竜の言葉一つで音を立てて崩れていくのを感じた。妹の痩せた頬に少しでも血の気が戻ればと、震える手で懐に押し込んだ、あの古米の重さと湿った匂いまでもが、今更のように蘇ってくる。あのとき覚えた小さな罪の意識を、犬丸はこれまで、ずっと見て見ぬふりをして生きてきたのだった。
「お前は、あのとき自分に言い聞かせたはずだ。妹を生かすためだ、これしきのこと、誰が咎めようか、と。そして今、老婆の言い分を聞いて、心のどこかで得心してしまっている自分にも、気づいていよう」
「違う……俺は、あの婆さんとは」
「違わぬ。生きるためだと言えば、たいていの悪は言い訳が立つ。それがこの世の理屈だ。私はただ、その理屈を人の形のまま、目の前に映して見せるだけの者だ」
犬丸は、後ずさりながら梯子の方へ視線を走らせた。今すぐこの場から逃げ出してしまいたい。だが、逃げたところで、明日からの暮らしがどうにかなるわけではない。妹の顔が、暗がりの向こうに浮かんでは消えた。竜は、犬丸のその逡巡を見透かしたように、ゆっくりと言葉を継いだ。
「逃げてもよい。この門を降りて、また元の暮らしに戻るがいい。だが、それでお前の腹は満ちるか。妹の頬に、血の気は戻るか」
老婆が、抜き取った黒髪をそっと懐にしまいながら、囁くように言った。
「若いの、私とて、初めからこうであったわけではありません。私にも、かつては守るべき者がおりました。ただ、生きるための理屈というものは、一度口にしてしまえば、二度目からは驚くほど容易くなるものです」
その声には、悔恨とも諦めともつかない、長い年月の澱みが滲んでいた。犬丸は、老婆の姿に、いつか自分がなるかもしれない未来を見た気がして、総身に冷たいものが走るのを感じた。竜は何も強いなかった。ただ、犬丸自身の裡にある理屈が、ゆっくりとその輪郭を固めていくのを、静かに待っているだけだった。
犬丸は一度、梯子の方へ体を向けた。このまま何も奪わず、何もせず、ここを降りてしまおうか。そうすれば、少なくとも今宵だけは、自分の手を汚さずに済む。だが足を一歩踏み出したところで、脳裏に浮かんだのは、間借り先の隅で膝を抱えて座る妹の、痩せて土気色をした顔だった。兄さん、明日は何か食べられるの――そう問われたとき、自分はどう答えればよいのか。犬丸は拳を握りしめたまま、梯子の前で立ち尽くした。進むことも、退くこともできぬまま、雨音だけが遠く天井裏に反響していた。
さあ、下人よ。お前はどうする――竜はそう問うたきり、あとはもう何も言わなかった。犬丸は、老婆と、その骸と、闇に蟠る竜とを、順に見やった。腹の底で、飢えと恐怖と、名状しがたい昂りが渦を巻いていた。
五 剥がれた影
「そういうことなら」
犬丸は、自分でも驚くほど平静な声で言った。
「俺が今からすることも、恨むなよ、婆さん」
言うが早いか、犬丸は老婆の襟首を摑み、痩せた体を骸の上に突き飛ばした。老婆が悲鳴を上げるのも構わず、身にまとった襤褸のような衣を、力任せに剥ぎ取っていく。
「な、何をする、お許しを……!」
「お前がその女子の髪を抜いたのと同じ理屈だ。俺も生きねばならん。恨むなら、この世を恨め」
老婆の泣き声じみた声を背に、犬丸は奪った衣を小脇に抱え、震える足を叱咤して梯子へと向かった。その一部始終を、闇に蟠る竜は、ただ黙って見つめていた。爪を振るうことも、声を荒げることもなかった。老婆を助けようとも、犬丸を咎めようともしなかった。
「見たか」
竜は、誰へともなく呟いた。
「私は何も奪わなかった。あの男の懐にあった僅かな良心も、この老婆の残された誇りも、私が手を下すまでもなく、あの男自身が投げ捨てていった。私はただ、その様を映して見せる鏡に過ぎぬ」
老婆はすすり泣きながら骸の間に蹲り、やがてその泣き声も、雨音の中に紛れて聞こえなくなった。竜はゆっくりと翼をたたみ、再びもとの濃い闇の中へ、身を沈めていった。まるで、何事もなかったかのように。
老婆は、震える手で自分の痩せた肩を抱きながら、闇の奥にわだかまる竜へ、掠れた声で問うた。
「主よ。あの者を、止めては下さらぬのですか。私を、憐れとは思われませぬのか」
「憐れとは思う」
竜の声は、初めてわずかに低く沈んだ。
「だが、私がお前を助ければ、お前はまた別の理屈を得るだろう。竜に守られたのだから、私のしたことは正しかったのだ、と。そうなれば、お前は二度と、自らの選んだ道の重みを知ることができなくなる。私が何もせぬのは、情がないからではない。お前たちから、自らを省みる最後の機会まで奪いたくはないからだ」
老婆はそれ以上何も言わず、ただ骸の間に深く顔を伏せた。その姿は、長い年月をかけてこの門に堆積してきた、無数の後悔の一つの形のように、犬丸の去った後の暗闇に溶けていった。
犬丸がその後どこへ向かい、どのような生涯を送ったのか、これを知る者はいない。妹のもとへ戻ったのか、それとも二度と戻らなかったのか。奪った衣を売って糊口をしのいだのか、それともその衣に袖を通したまま、いつしか自らも誰かの懐を狙う側へと堕ちていったのか。ただ、彼が奪った衣を纏い、羅生門の闇の中へ駆け去っていったことだけは確かである。
雨は、いつしか小降りになっていた。門の下には、再び誰もいなくなった。犬丸は羅生門を離れ、都の焼け残った路地を、当てもなく南へと駆けていった。奪った襤褸の衣を懐に抱えたまま、彼がどこかで足を止め、自分のしたことを振り返ったのかどうか、それを見届けた者はいない。ただ、その夜以来、間借り先の遠縁の家からも、彼の姿を見た者はいなくなったという。
天井裏の闇は、何事もなかったかのように静まり返り、次に誰かがあの梯子を上ってくる夜を、ただ静かに待ち続けている。都に鬼はもういない。だが、鬼が残していった昏さは、今もあの門の天井裏に、確かに息づいているのだった。そしていつの日か、また新たな下人が、飢えと寒さに追われてあの梯子に足をかけるとき、闇はまた、同じ静けさをもって、その者を迎え入れるのだろう。竜は裁かない。ただ、映すだけだ。そしてその鏡の前に立つ者は、いつの世も絶えることがなかった。
あとがき
芥川龍之介『羅生門』における下人と老婆の問答は、「生きるための悪は許されるか」という問いを、二人の人間の間だけで完結させる緊密な会話劇として成立している。本作では、その問いそのものを、能楽「羅生門」に伝わる鬼の伝承――片腕を斬られて都から姿を消したとされる鬼――の後継者として現れる竜に人格化させることを試みた。
竜は下人を襲わず、老婆を裁かず、ただ二人の選択を静かに見届けるだけの存在として配置した。これは、原作が読者自身に委ねている「善悪の判断」を、竜という第三者の視点を通して、いま一度読者の手元へ送り返すための仕掛けである。鬼を倒すべき怪物としてではなく、人の業を映す鏡として描くことで、原作の持つ乾いた読後感を、異なる手触りのまま受け継ぎたいと考えた。
本作は芥川龍之介『羅生門』を参考にした翻案作品です。