物語雳
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·読了目安 14分悪役

竜は呪いを望まなかった

荒野の館に伝わる呪竜伝説――先祖が生贄を捧げて封じたという怪物が、当主を次々と死に至らしめているという。名探偵の理詰めの推理が暴くのは、伝説を隠れ蓑にした遺産殺人と、捕らわれ利用された一頭の哀れな竜の姿だった。

一 ベイカー街の依頼

十月のロンドンは、朝からずっと霧が晴れなかった。ベイカー街二百二十一番地Bの居間では、暖炉の火が爆ぜる音だけが、しばらく沈黙を埋めていた。シャーロック・ホームズは客の置いていった一本のステッキを手に取り、象牙の握りに刻まれた文字を検分している。ジョン・ワトスンは新聞から顔を上げ、友の様子を眺めていた。

「グリムファング荒野からの依頼か。バーモア医師――ジェイムズ・バーモア。往診の合間に立ち寄って、置いていったきり戻らなかったというわけだね」

「その通りだ、ワトスン。だが本人はすぐに戻ってくるだろう。ステッキを忘れて平然としていられる医者はいない。それに、握りの真鍮には『C.C.H. より、感謝を込めて』と刻まれている。荒野の猟犬クラブから贈られたものだろう。田舎の開業医が都会に出るとき手放せるような品ではない」

言い終わらぬうちに、階段を上る足音がした。訪れたのは恰幅のよい壮年の紳士で、外套の裾には荒野の赤土がまだ乾ききらずにこびりついていた。バーモア医師は深々と一礼すると、震える声で切り出した。

「サー・チャールズ・バーモアが、先日の夜、荒野で亡くなりました。館の裏手からイチイの並木道を抜けたところで、うつ伏せに倒れているのを発見したのです。死因は心臓の発作と検死医は診断しましたが……その顔は、まるで何か途方もないものに追い詰められたかのように、恐怖にゆがみきっておりました。歩いた跡を辿ると、途中から足取りが乱れ、逃げ惑うように蛇行しております。そして、その足跡が途絶えたあたりから先には、誰のものとも知れぬ、巨大な足跡が続いていたのです」

ワトスンは思わず身を乗り出した。バーモア医師は続けて、荒野の一族に代々伝わる話を語り始めた。

「バーモア家には、遠い先祖の代からの言い伝えがあるのです。かつて我が家の当主が、荒野の奥に棲む竜を鎖で縛り上げ、生贄と引き換えにその力を封じたのだと。以来、竜は荒野の底で眠り続けているが、一族の誰かが道を誤れば、いつか目を覚まして復讐を果たすだろう、と。子供だましの怪談だと、私も長らく笑い飛ばしておりました。ですが、サー・チャールズが亡くなった晩、荒野の丘の上に、ぼんやりと光る巨大な影が動くのを見たという者が、村に何人もいるのです」

「発光する影、と」ホームズは目を細めた。「大きさは。色は。声は聞いたか」

「大人の背丈の三倍はあろうかという、翼を持つ獣の形をしていたと。青白く、燐のような光をまとっていたそうです。地の底から突き上げるような咆哮も、幾人かが耳にしております」バーモア医師は懐からハンカチを取り出し、額の汗を拭った。「サー・チャールズは、もともと心臓が弱く、荒野の伝説を人一倍恐れておいでした。夜な夜な、あの並木道を一人で歩く習慣がありましたが、いつも決まって、何かに怯えるように足を速めておいでだったと、使用人たちも申しております」

サー・チャールズには跡継ぎがなく、遠くカナダで働いていた甥のヘンリー・バーモアが、まもなく爵位と館を継ぐためにロンドンへ到着する予定だという。バーモア医師は、その身辺を案じていた。

「サー・ヘンリーが荒野の館に足を踏み入れれば、次はあの方の身に何かが起こるのではないかと、私は恐れているのです。医師として、迷信を信じるわけには参りません。ですが、あの足跡だけは、どう考えても説明がつかない」

「もう一つ、申し添えねばならぬことがあります」バーモア医師は声を落とした。「サー・チャールズは亡くなる数週間前から、荒野の測量図を持ち出しては、夜ごと書斎に籠っておいででした。誰かに宛てて手紙を書いていたようですが、その相手も内容も、私にはついぞ明かしてくださらなかった。もしや、竜の伝説の裏に、何か別の思惑があるとお疑いなのでは、と……いえ、老いた医者の勘繰りにすぎないかもしれません」

ホームズは煙草に火をつけ、しばらく無言で天井を見つめた。窓の外では霧がいっそう深くなり、街灯の光が滲んでぼやけて見えた。やがて、静かに言った。

「迷信を鵜呑みにするつもりはない。だが、恐怖に顔をゆがめて死んだ人間がいるという事実と、説明のつかない足跡という事実だけは、鵜呑みにしないわけにはいかないな。ワトスン、荒野へ行く支度をしてくれ。相続人の到着に、我々も間に合わせよう」

二 荒野の館

グリムファング荒野は、列車を降りてなお馬車で一時間を要する、辺鄙な土地だった。低く垂れ込めた雲の下、羊歯の茂る湿地と花崗岩の露頭が果てしなく広がり、風が吹くたびに、地の底から呻くような音が響いてくる。地元の者はそれを「荒野の唸り」と呼び、竜の寝息だと信じていた。馬車の御者は、館の名を告げただけで顔をこわばらせ、それ以上は口をきこうとしなかった。

バーモア館は、荒野の縁にそびえる古い石造りの屋敷だった。物々しい塔と、蔦の絡んだ回廊。窓の多くは鎧戸が閉ざされ、正面玄関の脇には、一族の紋章とともに、翼を広げた竜の彫刻が苔むしたまま残っていた。到着したサー・ヘンリーは、日に焼けた快活な青年で、迷信じみた話には歯牙にもかけない様子だったが、館に足を踏み入れた途端、どこか落ち着かなげに肩をすくめた。

「陰気な場所ですね、ワトスン先生。カナダの平原のほうが、よほど息がしやすい。しかし伯父の遺した館です。逃げ出すわけにはいきますまい」

出迎えた老執事夫妻――バリー夫妻――は寡黙で、館の奥の使われていない一室には近づくなと、それとなく釘を刺した。夕食の席で、ワトスンはこの土地の博物学者だという男を紹介された。ジョサイア・スティルマンと名乗るその人物は、遠縁にあたるバーモア家の血筋で、長年荒野の動植物を研究していると自己紹介した。物腰は柔らかく、荒野の地理に誰よりも詳しいらしい。妹だと紹介された若い女性が傍らに控え、終始うつむき加減に口数少なく過ごしていたのが、ワトスンには少し気にかかった。

「この土地には、まだ学問の光の届かぬ生き物が棲んでいるのですよ」スティルマンは薄い笑みを浮かべて言った。「竜の伝説にしても、あながち根も葉もない話ではないかもしれません。荒野の奥には、誰も足を踏み入れたことのない洞穴がいくつもありますからね。私はここ数年、あの荒野の生態を記録することに、研究者としての生涯を捧げるつもりでおります」

「先祖代々の言い伝えについて、詳しく伺えますか」ワトスンが尋ねると、スティルマンは食後の紅茶を手に、静かに語った。

「バーモア家の初代当主は、荒野の竜を生きたまま鎖で縛り上げ、その力を封じたと伝わっています。以来、竜は荒野の底に眠りながらも、当主の血筋を見張り続けているのだと。サー・チャールズは晩年、その伝説をひどく恐れておいででした。荒野の唸りが聞こえるたび、顔色を失っておいでだったのを、私もこの目で見ております」

食後、村の酒場に立ち寄ったワトスンは、地元民の恐怖が単なる噂話の域を超えていることを知った。羊飼いの老人は震える声で、三日前の夜に見たという光景を語った。

「丘の稜線を、光る化け物が横切っていくのを見たんだ。声も聞こえた。この世のものとは思えない、地の底から突き上げるような咆哮だった。あんなもの、生まれてこの方、聞いたことがない。うちの羊が二頭、忽然と姿を消しちまった晩のことさ」

隣に座っていた鍛冶屋の若者も、身を乗り出して口を挟んだ。

「俺は光そのものより、あの臭いが忘れられねえ。硫黄でも焦がしたような、鼻の奥に張りつく臭いだ。あれを嗅いだ翌朝は決まって、村のどこかで悪い知らせがある。サー・チャールズが亡くなった朝もそうだった」

酒場の主人は声を潜め、カウンター越しに身を寄せた。

「旦那方、余所者にゃ言いたくねえが……この村じゃ、竜の話をむやみに囃し立てる者ほど、都合のいい儲け話に絡んでるって、昔から相場が決まってるんでさあ。誰が得をするか、考えてみりゃあ、答えはそう遠くないところにあるかもしれませんぜ」

その言葉に、老人たちは顔を見合わせ、それ以上は誰も何も言わなかった。ワトスンはその沈黙の重さを、手帳に書き留めた。

ホームズは調査の都合上、いったんロンドンへ戻ると言い残して姿を消した。だが、それがホームズ一流の擬態であることを、ワトスンは長い付き合いから薄々察していた。館に残ったワトスンは、サー・ヘンリーの護衛に努めながら、独自に荒野を探り始めた。日中、館の周囲を歩き回るうち、荒野の奥にぽっかりと口を開けた洞穴の入り口を見つけたが、中は闇に沈んで見通せず、それ以上踏み込む勇気は出なかった。

三 光る影

館に来て五日目の夜、ワトスンは寝つけぬまま窓辺に立ち、荒野を見渡していた。月のない闇の底、遠く離れた丘の斜面に、青白い光がゆらりと浮かび上がった。息をのむ間もなく、その光は緩やかに動き、獣めいた輪郭を闇に描き出した。翼にも似た影が広がり、地の底から響くような、くぐもった唸り声が夜気を震わせる。

好奇心と、探偵の相棒としての責任感が、ワトスンの足を戸外へと向かわせた。外套を羽織り、拳銃を懐に忍ばせ、荒野のぬかるみを踏みしめながら、光の方角へと近づいていく。霧が足元に這い、進むほどに視界は狭まった。だが、光そのものは近づくにつれ、思いのほか弱々しく、揺らいでいることに気づいた。獣の唸り声も、よく耳を澄ませば、怒りではなく、痛みを堪えているような、途切れがちな響きを帯びていた。

岩陰に身を潜め、ワトスンは息を殺してその正体を見つめた。そこにいたのは、村人たちが語るような、山ほどの巨躯を誇る怪物ではなかった。せいぜい馬一頭ほどの大きさの、若い竜だった。鱗はまだ薄く、翼の縁はところどころ傷んでいる。脚には太い鎖が食い込み、岩に打たれた杭に繋がれていた。全身にまぶされた燐光を放つ粉が、動くたびに剥がれ落ち、闇の中に淡い光の尾を曳いている。竜は鎖を引きちぎろうと身をよじるたび、鋭い痛みに怯えたように鳴いた。その声は、村人が語った「地の底からの咆哮」というより、追い詰められた獣の悲鳴に近かった。

ワトスンは、恐怖よりも先に、言いようのない痛ましさを覚えた。竜の目は、月明かりの下でぎょろりと動き、こちらを窺っている。だがその目には、獲物を狙う獣の光ではなく、怯えと諦めに似た翳りが浮かんでいるように見えた。前脚の付け根には古い傷痕がいくつも走り、鞭で打たれたことを思わせる痕跡が、鱗の隙間に黒くこびりついている。餌を与えられている様子もなく、痩せこけた腹が呼吸のたびに上下していた。

背後で小枝を踏む音がして、ワトスンは慌てて振り返った。ランタンを提げたスティルマンが、驚いた顔でそこに立っていた。

「ワトスン先生、こんな夜更けに危険です。すぐに館へお戻りなさい。荒野には何が潜んでいるか、私にも計り知れないのですから」

スティルマンは竜のいる方角へ視線を向けようとはせず、むしろワトスンの肩を強く押して踵を返させた。その物言いには、荒野を熟知した学者らしい落ち着きの裏に、かすかな苛立ちが滲んでいた。館へ戻る道すがら、ワトスンの脳裏には、鎖に繋がれ怯えていた竜の姿が、いつまでも焼きついて離れなかった。あれが本当に、一族を呪う怪物だとは、どうしても思えなかったのだ。

翌晩も、ワトスンは同じ丘へと足を運んだ。今度は少し離れた場所から、双眼鏡越しに様子を窺うだけにとどめた。杭のそばには、飼い葉桶らしきものと、燐光鉱物の粉を詰めた麻袋が置かれているのが見えた。しばらくすると、ランタンを提げた人影が洞穴の方角から現れ、竜に近づいて桶に何かを注ぎ入れた。距離が遠く、顔までは判別できなかったが、その足取りには迷いがなく、幾度となく通い慣れた者の身のこなしがあった。人影は竜の首筋を乱暴に小突き、鎖の締め具合を確かめると、足早に闇の中へ引き返していった。何者かが定期的にここへ通い、竜の世話と、伝説の演出とを、同時に行っている証だった。

ワトスンは岩陰でじっと息を潜めたまま、竜がひとり残された後の様子も見届けた。人影が去ると、竜は張り詰めていた体から力を抜くように、その場にうずくまった。低く、途切れがちな声が漏れる。それは咆哮ではなく、まるで啜り泣きのような響きだった。ワトスンはその夜見たことを手帳に書き留めながら、ホームズの帰りを待った。手帳の最後には、迷った末にこう書き加えた。「もしこれが罪であるならば、罪を犯しているのは、鎖に繋がれた側ではない」

四 荒野の真相

数日後の夜、サー・ヘンリーのもとに一通の走り書きが届いた。差出人の名はなく、「イチイの並木道で待つ。バーモア家の秘密を伝えたい」とだけ記されていた。ヘンリーは血気にはやり、一人で出向こうとした。ワトスンが止める間もなく、ヘンリーは拳銃を懐に、霧の立ち込める荒野へと足を踏み出していた。

ワトスンが慌てて後を追うと、暗闇の向こうから、ロンドンにいるはずのホームズの声が響いた。

「ワトスン、こっちだ。私は最初からこの荒野に潜んでいたのだよ。荒屋の廃墟に寝泊まりしながら、な」

ホームズは足早にヘンリーを追いながら、これまでの推理を語った。

「サー・チャールズが亡くなる前、荒野の測量図を持ち出して書斎に籠っていたと、バーモア医師から聞いた時から、私はある可能性を疑っていた。サー・チャールズは、荒野の奥で何か――おそらくは、あの洞穴で怪しく動く人影に気づいていたのだ。竜の伝説を確かめるためではなく、誰かがその伝説を利用していないかを確かめるために、夜な夜な並木道を歩いていたのだろう。それが、彼を死に至らしめる隙を、皮肉にも作ってしまった」

「バーモア家の相続順位を洗ったところ、ジョサイア・スティルマンこそが、サー・チャールズ、サー・ヘンリーに次ぐ相続人だと知れた。彼は長年この荒野に暮らし、洞窟の奥に一頭の幼い竜を飼い慣らしていた。おそらくは、卵か孵ったばかりの雛の頃に捕らえたのだろう。荒野に伝わる燐光を放つ鉱物を粉にして鱗にまぶし、夜な夜な放っては連れ戻す――それを繰り返すことで、村人たちに『竜の目覚め』という伝説そのものを、まざまざと信じ込ませてきたのだ。妹君に取り次がせた偽りの手紙一つで、彼はサー・チャールズを深夜の並木道へと誘い出した。心臓の弱った老人が、闇の中で燐光をまとった竜の姿を目にすれば、それだけで十分だった。手を下すまでもなく、恐怖そのものが凶器になる。あの足跡は、逃げ惑うサー・チャールズ自身のものと、放たれた竜のものが重なり合ったものだったのだよ」

丘の向こう、イチイの並木道に、青白い光が揺れながら近づいてくるのが見えた。鎖を外され放たれた竜が、燐光をまとって闇を駆けていた。ヘンリーがその姿に立ちすくむ。ホームズは叫びながら駆け寄り、ヘンリーの腕を摑んで引き倒した。

「動くな! それは伝説の怪物などではない、脅えて逃げ出した哀れな生き物にすぎん!」

竜は二人のすぐ傍らを、怯えた悲鳴とともに駆け抜けていった。その脚には、千切れかけた鎖の切れ端が、なおも重たげに引きずられていた。近くで見るその姿は、月光の下、痩せた肋の浮いた腹と、怯えきった瞳をしていた。

物陰から、スティルマンが青ざめた顔で姿を現した。手には長い鞭を握っている。

「ホームズさん……どこまで知って」

「すべてだ、スティルマンさん。あなたはサー・チャールズを、荒野の闇の中で竜をけしかけて驚かせ、心臓の弱っていた彼を恐怖のあまり死に至らしめた。そして今夜、サー・ヘンリーにも同じ手口を使うつもりだった。竜自身には、一族を呪う意志などかけらもない。ただ、あなたに捕らえられ、痛みと恐怖でもって操られていただけの、憐れな道具だ。あなたの妹君が偽りの手紙を運ぶ役を担っていたことも、すでに調べがついている。彼女を追い詰めるつもりはないが、あなたの罪までかばう理由は、彼女にもないだろう」

「私は……」スティルマンの声は震えていた。「私はただ、正当な取り分を望んだだけだ。カナダくんだりで気楽に暮らしていた男に、この荒野も、館も、何がわかる。私はこの土地に骨を埋める覚悟で、何年も竜を探し、捕らえ、育て上げた。その苦労の何が罪だと言うのです」

「竜を育てたことが罪なのではない」ホームズは静かに、しかし容赦なく言葉を継いだ。「人の欲得のために、意志を持たぬ獣を鎖につなぎ、恐怖の象徴に仕立て上げ、あまつさえ人の命を奪う道具に変えた。その一点が、あなたの罪だ」

スティルマンは鞭を振り上げかけたが、ホームズの静かな眼差しに射すくめられ、やがて力なくその場に膝をついた。荒野の奥で、逃げ延びた竜の悲鳴が、遠くこだまして消えていく。追い立てられるようにぬかるみへと踏み込んだスティルマンは、足を滑らせ、深い泥濘に膝まで沈み込んだ。もがくほどに沈む泥の中で、彼はただ荒野の闇に向かって助けを求める声を上げるばかりだった。ワトスンが手を差し伸べようと駆け寄りかけたが、泥濘はあまりに深く、下手に近づけば共に沈みかねなかった。ホームズの指示で近隣の農家から板と縄が運ばれ、夜が明ける頃になってようやく、村人たちの手でスティルマンは引き上げられた。命こそ取り留めたものの、その両脚は冷え切った泥に長く浸かったせいで、二度と元通りには動かなくなったという。

五 荒野に残るもの

事件の顛末が村に知れ渡ると、荒野の民の間には、奇妙な静けさが訪れた。竜の伝説は消えなかったが、その語られ方は少しずつ変わっていった。呪う怪物としてではなく、捕らわれ、利用された哀れな生き物として。

ホームズとワトスンは、荒野の奥深くの洞穴で、竜が長年閉じ込められていた跡を検分した。壁には無数の爪の跡が刻まれ、干からびた骨と、餌の残骸が積み重なっていた。ワトスンは、竜が繋がれていたはずの杭の周りに、まるで身を丸めて眠っていたかのような窪みがあるのを見つけ、しばらくその場を離れられなかった。片隅には、燐光鉱物の粉を詰めた麻袋が幾つも積まれ、傍らには使い古された鞭が転がっていた。

「あの竜は、どうなるのでしょうか」

サー・ヘンリーが問うと、ホームズは荒野の彼方を見やりながら答えた。

「鎖はもう外れている。誰も追わなければ、あとは荒野の奥へ、自分の力で帰っていくだろう。人に飼い慣らされ、恐怖の象徴に仕立て上げられていた歳月を思えば、せめてそれくらいの自由は、当然の報いだ」

サー・ヘンリーは館に戻ると、当主の名において、荒野の奥一帯を狩猟や採掘から永久に禁じる旨の高札を立てさせた。理由を問われれば、彼はただ「先祖の因縁に、これ以上人の手を加えぬためだ」とだけ答えた。バリー夫妻はその決定に、どこか安堵したような表情を見せた。

スティルマンの妹は、兄の罪を知らなかったわけではなかったが、幼い頃から兄に頭が上がらぬまま育った身の上を、涙ながらにワトスンへ語った。ヘンリーは彼女を罪に問うことを望まず、慎ましい年金を与えて村を去ることを許した。村人たちの間でも、彼女を責める声はほとんど上がらなかった。荒野に生きる者同士、誰もが多かれ少なかれ、身内の因習に縛られて生きてきたことを、皆どこかで知っていたからだろう。

数日後の夕暮れ、ワトスンは館の窓辺から、遠い丘の稜線を一頭の影が横切っていくのを見た。もう燐光の粉はまとっていない。ただ、夕焼けを浴びた翼が、鈍い金色に光っただけだった。それは怪物の咆哮ではなく、まるで解き放たれた者の、静かな羽ばたきのように見えた。傷ついた翼を庇うように、ゆっくりと、しかし確かに、竜は荒野の奥へと消えていった。

ロンドンへ帰る汽車の中、ワトスンはホームズに問うた。

「あの竜は、本当に一族を呪ってなどいなかったのですね」

「無論だ」ホームズは窓の外を流れる荒野の景色に目をやりながら言った。「竜に人を呪う意志などなかった。呪いを望んだのは、遺産を望んだ人間のほうだったのだよ、ワトスン。伝説というものは、いつだって、それを利用しようとする者の影のほうが恐ろしい。荒野の唸りも、竜の咆哮も、突き詰めれば人の強欲の谺にすぎん」

汽車は霧の晴れた荒野を抜け、やがてロンドンの灯りの方角へと走り去っていった。荒野に残された伝説は、これから先も語り継がれるのだろう。だがその物語の中で、竜はもう、誰かを呪う怪物としてではなく、ただ人間の強欲に利用された、一頭の哀れな生き物として、記憶されることになるはずだった。

あとがき

アーサー・コナン・ドイルの「バスカヴィル家の犬」は、ダートムーアの荒野に伝わる魔犬伝説を隠れ蓑に、遠縁の人物が本物の犬に燐光塗料を塗って怪物に仕立て、相続人たちを恐怖のうちに死に至らしめようとした計画を、名探偵ホームズが理詰めの推理で暴く物語である。

本作では、「魔犬」を「先祖が鎖で封じたとされる呪竜」に置き換え、事件の骨格は保ちながら、竜そのものの扱いを大きく作り変えた。原作の犬が終始「凶暴な怪物」として描かれるのに対し、本作の竜は、幼い頃に捕らえられ、燐光を放つ粉をまぶされて伝説の怪物に仕立てられた、無自覚な被害者として描いている。ワトスンが荒野で竜と遭遇する場面(第三章)を新たに設け、恐怖の対象であるはずの竜に憐れみを覚える視点を挟むことで、真相が暴かれる第四章での「竜は道具にすぎなかった」という構図に、感情的な厚みを持たせることを意図した。犯人の動機や末路、館や地名、登場人物の一部の名は独自に創作している。

なお本作は、原典の翻訳や逐語的な引用は行わず、あらすじと構図のみを参照し、文章・情景・展開は独自に創作したものである。


本作はアーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle)著『The Hound of the Baskervilles(バスカヴィル家の犬)』を参考にした翻案作品です。

本作はアーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle)の『The Hound of the Baskervilles(バスカヴィル家の犬)』を参考にした作品です。原典