物語雳
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·読了目安 15分主役

竜は心臓を惜しまなかった

真実の愛を伝説でしか知らぬ孤独な竜が、麓の学生の嘆きを聞き、己の心臓を氷結の棘に捧げて紅玉を生む。だがその贈り物は、宝石の前に一顧だにされず川へ捨てられる。

一 氷閃山、独り棲む竜

氷閃山(ひょうせんざん)の頂は、一年のうちどの季節に見ても白く輝いていた。麓の町から見上げれば、それはただ美しい景色の一部でしかなかったが、その頂近くの岩棚に、一匹の竜が棲んでいることを知る者は、ほとんどいなかった。

竜の名は霜(しも)といった。生まれてすぐに卵の殻から出て以来、親と呼べる存在に会ったことはなく、群れというものも知らなかった。氷閃山の岩棚に一人きりで棲み、風の音と、遠い麓の町の灯りだけを友として育った。鱗は薄い灰白色をしていて、朝夕の光を浴びると、まるで霜が張ったように淡く光った。その姿から、いつからか自分自身のことを霜と呼ぶようになっていた。誰かに名付けられたわけではない。ただ、そう呼ぶ声を持つ者が、この山には自分しかいなかったというだけのことだ。

一日のほとんどを、霜は岩棚の上で過ごした。朝は谷底から立ちのぼる霧を眺め、昼は氷河の割れ目に差し込む光の筋を目で追い、夜は満天の星と、麓の町の灯りを見比べて過ごす。獲物を狩ることも、氷を割って湧き水を飲むことも、誰に教わったわけでもないのに、いつのまにか身についていた。生きるための術には何一つ不自由していなかった。それでも、日々の暮らしのどこかに、埋めようのない隙間があることを、霜自身も薄々気づいていた。

孤独であることに、霜は特段の不満を持ってはいなかった。日々の暮らしに困ることはなかったし、氷閃山の頂からは、世界のほとんどが見渡せた。けれど、夜がふけて、麓の町にぽつりぽつりと灯る明かりを眺めているときだけ、胸の奥に言いようのない渇きにも似たものが疼くことがあった。それはきっと、あの灯りの下でひとが営んでいるだろう、何か自分の知らない温かなものへの憧れだった。

その憧れに輪郭を与えたのは、幼い頃にたった一度だけ出会った、年老いた竜の言葉だった。名をガルムといい、旅の途中でほんの数日、氷閃山の岩棚に羽を休めていっただけの、通りすがりの竜だった。翼の縁は幾重にも傷つき、鱗の色もくすんでいたが、その双眸だけは、若い霜が見たこともないほど深い光をたたえていた。まだ翼も定まらぬ幼い霜は、その老竜の傍らにぴたりと寄り添い、何をするでもなく、ただその息づかいを聞いているだけで満たされる心地がしたのを覚えている。

「お前は一人か」

ガルムはある晩、そう尋ねた。霜がこくりと頷くと、老竜はしばらく黙って星空を見上げていたが、やがて低く掠れた声で、竜の一族に伝わる古い言い伝えを語って聞かせた。

「真実の愛というものがある。人にも竜にも、めったに宿らぬものだ。だが、もしその愛のために我が身のすべてを差し出す覚悟ができたなら、竜は一度だけ、赤心(せきしん)の業(わざ)を使うことができる。氷に閉ざされた棘の古木に己の心臓を突き刺し、一晩じゅう体内の炎を燃やし尽くして血を凍らせれば、混じり気のない紅玉が生まれる。それは竜の命そのものと引き換えの贈り物だ。安易に語ってよいものではない」

「その紅玉は、誰のものになるの」

幼い霜が尋ねると、ガルムはわずかに目を細めた。

「己のためではない。誰か他の者の願いのために使うものだ。その贈り物が誰かに届いたとき、たとえ竜自身がそれを見届けられなくとも、その愛は本物として残り続ける。そう、私は教わった」

「ガルムは、その業を使ったことがあるの」

幼い霜がさらに尋ねると、老竜はしばらく黙り込んだ。やがて、翼の付け根に残る、他の傷とは明らかに異質な、白く引き攣れた痕を、そっと霜に示した。

「私が使ったのは、私自身のためではなかった。もう名も覚えていないほど昔、私の兄弟のうちの一頭が、人の娘に恋をしてな。私はその願いを叶えてやりたくて、この業を借りに来た年老いた竜のもとを訪ねた。だが、業を授かるには、相応の代償がいる。この傷はその名残だ。結局、兄弟の想いも実らなかったが、それでも私は悔いてはいない。悔いるべきは、差し出さなかったことの方だ」

その言葉の意味を、幼い霜はまだ十分に理解できなかった。それでも、老竜の声に宿る静かな確信だけは、いつまでも胸の奥に残り続けた。ガルムはそれだけを言い残すと、翌朝には翼を広げ、二度と氷閃山へは戻ってこなかった。だが、その言葉だけは、幼い霜の胸の奥深くに、燠火のようにいつまでも残り続けた。真実の愛とは、いったいどれほどのものなのだろう。自分のすべてと引き換えにしてもよいと思えるほどのものが、この世には本当にあるのだろうか。

麓の町は、学問の町ヴェスタールといった。石造りの塔がいくつも立ち並び、夜になると、学生たちの部屋の窓に、細く長く灯りが灯る。霜は幾度となく、その灯りの連なりを頂から見下ろしては、あの明かりの下で誰かが誰かを想っているのだろうかと、とりとめもなく考えた。会ったこともない人間たちの営みに、これほど心を寄せてしまうのは、我ながら奇妙なことだと思いながらも、その夜ごとの習慣をやめることはできなかった。

季節が幾度めぐっても、霜の暮らしに大きな変化はなかった。冬には吹雪に耐え、夏にはわずかに緩む雪解け水で喉を潤し、そうして幾年もの月日が、静かに積み重なっていった。時折、麓の空を渡り鳥の群れが横切っていくのを見ると、霜は自分だけがこの山に取り残されているような、ひどく心細い気持ちになることもあった。それでも、誰かに助けを求めるということを、霜は知らなかった。

その夜も、霜はいつものように岩棚に伏せて、ヴェスタールの灯りを見下ろしていた。風は例年より冷たく、遠くの尾根では、もう雪解けの気配すら感じられなかった。何か大きな出来事が起きるような予感はどこにもなかったが、ただ胸の奥の渇きだけが、いつもより少し強くうずいているのを、霜は静かに感じ取っていた。まるで、長らく凪いでいた水面に、最初の波紋が生まれる前触れのようだった。

二 麓の町、届かぬ嘆き

その夜、霜は珍しく、頂を離れて麓近くまで舞い降りていた。人目につかぬよう、月の陰った小道を選び、町外れの果樹園の縁まで、音もなく降り立った。理由は自分でもよくわからなかった。ただ、いつもより強くうずく胸の渇きに、じっとしていられなかったのだ。凍りついた枝先が触れ合う音、遠く川の流れる音、そして人の営みの気配――それらすべてが、これまで遠目にしか知らなかった世界の手触りとして、霜の五感に押し寄せてきた。

果樹園の奥、りんごの木の陰から、押し殺したすすり泣きが聞こえてきた。霜は身を低くして、木々の隙間からそちらをうかがった。そこにいたのは、粗末な外套をまとった、痩せた青年だった。月明かりに照らされたその横顔は、まだ少年の面影を残しながらも、深い疲労と絶望とに縁取られていた。

「赤い宝珠さえあれば……赤い宝珠さえあれば、イレーヌは僕と踊ってくれると言ったのに」

青年の名はフェリクスといった。ヴェスタールの学舎に通う、貧しい学生だった。学問には熱心で、誰よりも遅くまで灯りをともして書物に向かう真面目さを持っていたが、身なりを整える余裕もなく、いつも同じ古びた外套一枚で冬をしのいでいた。教授の娘イレーヌに、ずっと想いを寄せていたが、彼女は「今度の舞踏会に、赤い宝珠を持ってきてくれたなら、あなたと踊ってあげてもいい」と、いくぶんからかい半分に言い放っていた。それが本気の言葉なのか、それとも軽い戯れに過ぎないのか、フェリクスには判別のしようもなかった。それでも、その一言にすがるほかに、彼にできることは何もなかった。

けれど、フェリクスの財布には、宝石どころか、まともな靴を買う金すらなかった。町じゅうの宝石商を訪ね歩いても、赤い宝珠などという特別な代物は、どこにも売っていなかった。ある宝石商は、鼻先で笑いながら「そんな稀少な石を、この町の職人ごときが打てるはずもない」とすげなく答えたという。絶望したフェリクスは、誰もいない果樹園の隅にうずくまり、声を殺して泣いていたのだった。

「どうせ、イレーヌはもう、アルベールから本物のダイヤモンドを贈られているという噂だ。侍従の甥だという、あの金持ちの……。僕なんかが敵うはずもない。それでも、赤い宝珠さえあれば、一度くらいは僕を見てくれるかもしれないと思ったのに。この気持ちだけは、誰にも笑われる筋合いはないはずなのに」

木陰から一部始終を聞いていた霜は、身じろぎもできずにいた。これが、あの灯りの下で誰かが誰かを想うということなのか。憧れていたものの正体を、生まれて初めて目の当たりにしたような気がした。同時に、青年の嘆きがあまりにも切実で、聞いているだけで胸が締めつけられるようだった。誰かをこれほどまで想い、その想いのために涙を流すという営みが、自分の知らないところで日々繰り返されているのだと思うと、霜は自分の孤独な日々が、急にひどく物足りないものに思えてきた。

霜の脳裏に、ガルムの声がよみがえった。真実の愛のために我が身のすべてを差し出す覚悟ができたなら――赤心の業。それは竜自身のための愛ではない。だが、この青年の嘆きを聞いてしまった今、霜には、これ以外に取るべき道が見当たらなかった。誰かのために、生まれて初めて何かをしてやれるかもしれない。そう思うと、胸の奥の渇きが、初めて満たされていくような気さえした。

見返りなど、はじめから望んではいなかった。青年は霜の存在にすら気づいていない。それでいい、と霜は思った。ただ、あの切実な嘆きが、一晩だけでも報われるのなら、自分が長年抱え続けてきた渇きにも、ようやく意味が生まれる気がした。

フェリクスがようやく涙を拭い、覚束ない足取りで果樹園を後にするのを、霜は木陰からじっと見送った。その背中が完全に見えなくなるまで、霜は身動き一つせずに待ち続けた。やがて静寂が戻ると、霜はゆっくりと翼を広げ、音も立てずに夜空へと舞い上がった。その夜のうちに、霜は静かに山へ戻った。頂に着く頃には、心は不思議なほど凪いでいた。恐れも迷いもなかった。ただ、長らく胸の奥でくすぶり続けていた渇きの正体が、ようやくはっきりと形をなしたことに、どこか安堵にも似た感覚を覚えていた。

岩棚に降り立った霜は、しばらくの間、いつもと変わらぬ姿勢で麓の灯りを見下ろしていた。だが、その眼差しには、これまでとは違う静かな決意が宿っていた。もう迷うことはない。明日の晩、あの棘の古木のもとへ行こう。霜はそう心に定めた。

三 赤心の業、氷結の棘

翌晩、月が中天にかかる頃、霜は氷閃山の頂よりもさらに高い場所へと歩みを進めた。そこには、いつの頃からか氷に閉ざされたまま立ち続ける、一本の棘の古木があった。幹も枝も、幾重にも重なった氷の層に覆われ、その内側に無数の鋭い棘を隠している。霜は物心ついた頃からその木の存在を知っていたが、近づいたことは一度もなかった。ガルムの言葉を思い出すたびに、いつかこの木が自分に何かを求める日が来るのだろうかと、漠然と感じてはいたのだが、それが本当に現実になる日が来るとは、想像したこともなかった。

古木を包む氷は、月光を受けて青白く輝き、まるで内側に無数の星を閉じ込めているかのようだった。近づくにつれて、氷の奥から発せられる冷気が肌を刺すように強くなっていくのを、霜は感じた。それでも足を止めることはなかった。

月の位置を確かめ、霜はゆっくりと棘の古木に歩み寄った。氷の幹に映る自分の姿は、思っていたよりもずっと小さく、頼りなく見えた。それでも、迷いはなかった。フェリクスの震える声を、もう一度胸の内で繰り返した。赤い宝珠さえあれば――それだけを支えにして、霜は静かに目を閉じた。

古い言い伝えの通り、霜は胸を大きく開き、氷の奥に隠れた一番鋭い棘に、自らの胸を沈めていった。氷を割るような痛みが全身を貫いたが、悲鳴の声を上げることはなかった。そのかわりに、腹の底から、低く長い唸り声が漏れた。それは竜だけが持つ、体内の炎を保つための唸りだった。歌う小夜啼鳥のように、霜は夜通しその唸りを絶やさず、己の内なる炎を燃やし続けなければならなかった。

一滴、また一滴と、棘を伝って血が滴り落ちるたび、氷の幹の中で、それはゆっくりと凍りついていった。最初はただの赤い染みだったものが、時を経るごとに輪郭を持ち、透き通った紅玉の形を成していく。血を凍らせるためには、体内の炎を絶やしてはならない。だが、炎を燃やし続けるためには、命そのものを燃料にするほかなかった。棘が深く食い込むたびに、霜の中で何かが少しずつすり減っていくのがわかった。それでも、唸り声を止めることはできなかった。止めれば、紅玉は未完成のまま砕け散ってしまう。

夜が更けるにつれて、痛みは全身に広がり、視界の端が霞み始めた。風は絶え間なく吹きすさび、氷の幹に細かな亀裂を刻んでいったが、その音すら、霜の耳にはもう遠く聞こえた。それでも霜の脳裏に浮かぶのは、痛みそのものではなく、果樹園で聞いたフェリクスの声だった。赤い宝珠さえあれば――あの切実な言葉が、痛みの合間に幾度も反響した。自分がこれまで焦がれていた「真実の愛」とやらに、こうして関わることができるのだという、静かな高揚が、痛みの底にわずかに灯っていた。

真夜中を過ぎた頃、霜はふと、ガルムの言葉の続きを思い出した。年老いた竜は、あのとき最後にこうも言っていたはずだ。「その贈り物が誰かに届いたとき、たとえ竜自身がそれを見届けられなくとも、その愛は本物として残り続ける」と。霜はその言葉にすがるように、残り少ない力を振り絞って唸り続けた。見返りを求めているわけではなかった。ただ、自分の命が、誰かの願いのために形を変えるということ、そのこと自体に、何か満たされるものを感じていたのだ。孤独だった日々のすべてが、この一晩のために積み重ねられてきたのだとしたら、それもまた悪くない、と霜は思った。

棘はさらに深く食い込み、霜の体温は少しずつ失われていった。翼の先から、じわりと感覚が失われていくのがわかった。それでも唸り声だけは絶やさなかった。凍りついていく紅玉の輪郭が、氷の幹の奥でしだいに完璧な球形へと近づいていくのが、霞んだ視界の端にかろうじて映っていた。もう痛みなのか、それとも何か別のものなのか、自分でも判然としない感覚の中で、霜はただひたすら、あの青年の願いが叶う様を思い描き続けた。

空の端が、わずかに白み始めていた。

四 明け方の紅玉、砕かれた願い

夜明けとともに、氷閃山の頂は、いつもと変わらぬ静けさに包まれた。ただ一つ違っていたのは、棘の古木の根元に、灰白色の竜が一匹、翼を静かに畳んだまま横たわっていたことだった。その胸には、もう一つの鼓動もなかった。氷の幹の奥では、朝日を浴びて、混じり気のない一粒の紅玉が、燃えるような深紅の光を放っていた。夜通し吹き荒れていた風はいつしか凪ぎ、山は何事もなかったかのような沈黙に包まれていた。

その日の昼過ぎ、麓の町から少し外れた山道を、フェリクスが力なく歩いていた。売れるものはないかと、当てもなく山の斜面をうろついていたのだ。昨夜のうちに、着られる衣服はほとんど質に入れてしまい、これ以上どうしようもないと分かっていながらも、足だけが自然と山へ向かっていた。ふと足元の雪だまりに、見たこともないほど鮮やかな赤い輝きを見つけて、フェリクスは目を疑った。掘り出してみると、それは掌に収まるほどの、完璧な紅玉だった。指先に伝わる冷たさの奥に、なぜか微かな温もりが残っているような気がしたが、フェリクスはそれを気に留めるほどの余裕を持たなかった。

少し離れた岩棚に、大きな竜の姿が横たわっているのが遠目に見えたが、フェリクスにはそれが単に眠っているだけの野生の竜としか思えなかった。竜など恐ろしいものだと聞かされて育った彼は、深追いする勇気もなく、ただ足早にその場を離れた。まさかその竜が、たった今、この紅玉のために命を燃やし尽くしたのだとは、想像すらしなかった。

「これだ……これがあれば!」

フェリクスは紅玉を握りしめ、転がるようにヴェスタールの町へ駆け戻った。息を切らしながら教授の屋敷を訪ね、応対に出たイレーヌに、震える手でその紅玉を差し出した。

「イレーヌ、見てくれ。赤い宝珠を持ってきた。これで、僕と踊ってくれるだろう」

イレーヌは怪訝そうに眉をひそめながら、フェリクスの手の中の紅玉を一瞥した。だがその視線はすぐに、興味を失ったように逸れていった。

「なにこれ。ただの赤い石ころじゃない。それに、もう遅いわ」

イレーヌは自分の指にはめられた指輪を、見せつけるように掲げた。そこには、大粒のダイヤモンドが輝いていた。

「アルベールが、本物の宝石をくださったの。侍従のご親戚だけあって、趣味がお分かりだわ。あなたのその石、どこの山で拾ってきたの? まさか、それを宝石だと思って持ってきたわけじゃないでしょうね」

フェリクスは言葉を失った。手のひらの紅玉は、さっきまであれほど鮮やかに見えていたのに、イレーヌの言葉を浴びた途端、ただの色のついた石ころのようにしか思えなくなっていった。

「これは……その、山で見つけたものなんだ。市場に出回るどんな宝石よりも、きっと――」

「石ころに、値打ちなんてつけようがないでしょう。夢のようなことを言うのはおよしなさいな。舞踏会には、アルベールと参りますから」

そう言い残すと、イレーヌはにべもなく扉を閉ざした。フェリクスは、閉ざされた扉の前に、しばらく立ち尽くしていた。屋敷の中からは、すでに舞踏会の支度でもしているのか、賑やかな話し声がかすかに漏れ聞こえてきた。その明るさが、今のフェリクスには、ひどく遠いもののように感じられた。

五 川面に消えた贈り物

肩を落として町を歩くフェリクスの手の中には、まだ紅玉が握られたままだった。橋の上に差しかかったところで、彼は足を止め、川面を見下ろした。冬の陽を受けて、水面はにぶく光っていた。手のひらの中の紅玉は、握りしめすぎたせいか、わずかに体温を帯びていたが、その温もりの意味を、フェリクスが知ることは決してなかった。

「恋などというものは、所詮こんなものか」

フェリクスは吐き捨てるようにつぶやくと、握っていた紅玉を、力任せに川へと投げ捨てた。紅玉は小さな弧を描いて宙を舞い、水音とともに川面に沈んでいった。波紋が幾重にも広がり、やがて何事もなかったかのように、水面はもとの静けさを取り戻した。川底に沈んだ紅玉は、深い水の底で、しばらくの間ぼんやりと赤い光を放っていたが、やがて泥に半ば埋もれ、誰の目にも触れることのないまま、静かにその輝きを閉ざしていった。

「愛など非現実的で愚かしいものだ。僕はこれからは、もっと確かなもの――論理学や、数学のような、裏切らないものだけを信じて生きていく」

フェリクスはそうつぶやくと、埃をかぶった書物の待つ下宿へと、足早に戻っていった。その足取りには、もはや未練らしきものは何一つ残っていないようだった。彼はこの日のことを、それからの人生で一度も思い出すことはなかった。誰の命と引き換えにその紅玉が生まれたのかを、フェリクスは最後まで知らなかった。数年後、彼は堅実な官吏として身を立て、若気の至りだったと、恋そのものを笑い話にする男になっていったという。

氷閃山の頂では、朝日がゆっくりと雪原を照らし始めていた。棘の古木は、もう二度と何も生み出さぬまま、ただ静かに氷に閉ざされている。その根元に横たわる灰白色の竜の亡骸に、気づく者は誰もいなかった。風だけが、その傍らを何度も吹き抜けていった。かつてガルムが去っていったのと同じ空を、今度は誰も渡っていかなかった。

やがて雪が降り積もり、竜の姿を白く覆い隠していった。春が来て雪が解けても、そこに何があったのかを知る者は、ついに誰一人として現れなかった。ヴェスタールの町では、その晩、舞踏会の灯りが煌々と灯り、イレーヌとアルベールの笑い声が、音楽とともに華やかに響いていた。誰ひとりとして、その夜空の向こうにそびえる氷閃山で、何が起きたのかを知らないままに。

氷閃山だけが、その夜の出来事のすべてを知っていた。だが山は語る術を持たず、ただ静かに、季節の巡りとともに、その記憶を雪の下へと埋もれさせていくばかりだった。

あとがき

オスカー・ワイルドの『ナイチンゲールと薔薇』は、赤い薔薇を求める学生の涙を見て、真実の愛を信じる小夜啼鳥が、己の胸を棘に突き刺し、命と引き換えに真紅の薔薇を咲かせるものの、その犠牲は誰にも知られぬまま、俗物的な娘によって無情に踏みにじられて終わる、皮肉に満ちた悲劇である。

本作では、この「見返りを求めぬ献身が、俗世の物差しの前に一顧だにされず終わる」という骨格を保ちながら、小夜啼鳥の役割を、氷閃山に独り棲む孤独な若い竜・霜に置き換えた。竜の一族に伝わる「赤心の業」――氷結の棘に己の心臓を捧げ、一晩じゅう体内の炎を燃やして紅玉を生み出す、命と引き換えの秘技――という新たな設定を据え、霜が真実の愛というものをただ伝説としてしか知らず、それでも見返りを求めずに己のすべてを差し出す姿を描いた。氷閃山という舞台、霜という竜の存在、フェリクスとイレーヌ、アルベールをめぐる人間模様、細部の出来事や台詞はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作はオスカー・ワイルド著『ナイチンゲールと薔薇』(https://www.gutenberg.org/ebooks/902)を参考にした翻案作品です。

本作はオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の『ナイチンゲールと薔薇(The Nightingale and the Rose)』を参考にした作品です。原典