物語雳
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忠義の竜は、破られた誓いを見逃さなかった

隣国との戦にようやく平穏が戻った王国で、危うきを見る目を持つ竜は、王に立てさせた誓いの重みをその身に負っていた。二人の王子の死、東方の女王、そして違えられた誓い――竜が下した裁きは、復讐ではなく、己の掟を貫く忠義のかたちだった。

一 予兆の年

ヴォルダニア王国は、長い戦の疲れを、ようやく忘れかけていた。

隣国との国境線は十年にわたって血で描き直され続け、老王カルダンの髪はその年月の分だけ白く痩せていった。城下の民は、朝市に出る野菜の値よりも、烽火台に火が入るかどうかを気にして眠る癖が抜けなかった。それでもここ数年、国境の谷はしんと静まり、麦畑には久方ぶりに実りが戻っていた。人々は恐る恐る、平和という言葉を口にし始めていた。市の広場では、久しく聞かれなかった祭囃子の稽古が再開され、子どもたちは戦を知らない世代として育ち始めていた。

その平和の陰に、一頭の竜がいることを、城の誰もが知っていた。

北の塔の最上階、王の私室よりもさらに高い場所に設えられた竜舎で、ラティエルは生まれた。卵から出たばかりの頃から、その瞳は他の竜と違っていた。灰色がかった鱗の下、目だけが熾火のような赤を宿し、危険が近づくと、誰に教えられるでもなくその赤が揺らめくのだという。

竜をカルダン王に贈ったのは、老星読みオルシンだった。もう二十年近く前、国境の戦がもっとも激しかった頃、オルシンは卵をひとつ携えて王城を訪れ、こう告げたという。

「この卵から生まれる竜は、危うきを見る目を持ちましょう。ただし――」

老星読みは、そこで一度言葉を切った。

「いつか私が望むものをひとつ、必ずお与えいただきたい。それが対価にございます」

若かったカルダン王は、戦に疲れきっていた。危険を事前に知らせる竜がいれば、少なくとも奇襲の恐れだけは減らせる。王はほとんど迷わずその誓いを立てた。いつか望むものをひとつ与える、と。玉座の間に居並んだ家臣たちは、王のその即断を頼もしいと褒めそやしたが、対価の中身を誰ひとり問い質そうとはしなかった。誓いというものは、立てる瞬間には常に軽く、果たす瞬間になって初めて、その本当の重さを量られるものだったのかもしれない。

卵の世話は、オルシンの手で城の片隅に引き取られていた孤児のミラに任された。ミラは物心つく前に両親を亡くし、オルシンに拾われて以来、この老星読みの助手として、竜舎の掃除や餌やりを一手に引き受けて育った。竜が孵った日、殻を割って顔を出したラティエルの赤い瞳が真っ先に見つけたのは、覗き込んでいたミラの顔だったという。それ以来、ラティエルはミラにだけ、他の誰にも見せない仕草――喉の奥を小さく鳴らして甘えるような仕草を見せた。城の侍女たちは、竜の世話係という役目を厄介事のように陰口したが、ミラ自身はその塔の暮らしを、誰よりも豊かなものだと感じていた。

「今日はどう、ラティエル」

竜舎の格子窓から差し込む朝の光の中、ミラは古びた桶に汲んだ水を竜の前に置いた。ラティエルはもう若竜と呼べる大きさに育っていたが、ミラの前ではまだ卵から出たばかりの頃のように、鼻先を彼女の肩にすり寄せてくる。

「変わりない。……いや」

竜の声は低く、石壁にこもるような響きを持っていた。ラティエルは水面に映る自分の赤い瞳をしばらく見つめてから、続けた。

「昨夜、瞳の奥が妙に疼いた。何かが近づいている、そんな気がする」

「危険が、ということ?」

「わからない。まだ形になっていない。……小さな棘のようなものだ。今はまだ、な」

ミラは桶の水を替える手を止め、竜の瞳を覗き込んだ。熾火のような赤の奥に、いつもとは違う陰が揺れているように見えた。だが平和な年が続いたせいか、城の誰もがこの頃、竜の警告を「念のための儀礼」程度にしか扱わなくなっていた。物見の兵たちは、竜が唸るたびに一応は国境へ使いを走らせたが、その足取りにはかつてのような緊張はなく、むしろ面倒事を早く片付けたいという気配の方が濃かった。

「オルシン様には伝えた?」

「伝えた。だが、あの人はこう言うだけだった。――時が満ちれば、おのずと分かる、とな」

その言葉の意味を、ミラもラティエルも、まだ正しく量ることができずにいた。オルシンは近頃、竜舎を訪れるたびに何か物思いに沈んだ様子を見せていた。かつて王に立てさせた誓いのことを、老星読みが忘れているはずはない。だが誓いの中身について、オルシン自身の口から語られたことは一度もなかった。ミラが幼い頃に一度だけ、無邪気に「いつかオルシン様は何を望むの」と尋ねたことがある。オルシンはその時、珍しく厳しい顔をして「それは、望んで知るようなことではない」とだけ答え、二度とその話題に触れさせなかった。

塔の窓から見下ろす王都は、久方ぶりの平穏に浮かれ、夜ごと灯りを絶やさなかった。その灯りの海を見つめながら、ミラはふと、竜の瞳の奥に揺れていた小さな陰のことを思い出しては、理由のわからない胸騒ぎを覚えるのだった。夜風が竜舎の窓を叩くたび、ラティエルはわずかに首をもたげ、遠い国境の方角へと視線を向ける。その仕草が増えていくのを、ミラだけが数えるように見守っていた。

二 二度目の咆哮

その夜がやってきたのは、麦の穂が色づき始めた晩夏のことだった。

深夜、塔の外から響いた咆哮に、王城中が飛び起きた。ラティエルの声は一度きりでは終わらなかった。夜気を裂くように、二度、三度と続けざまに響き渡った。ミラは寝台から跳ね起き、竜舎へ駆け上がった。ラティエルは翼を大きく広げ、赤い瞳を爛々と燃え立たせながら、闇に向かって吠え続けていた。

「ラティエル、どうしたの!」

「二つだ」竜は喉の奥から絞り出すように言った。「二つの方角から、二つの危うさが近づいてくる。……重なり合う影のように」

王の間には、すでに侍従たちが駆け集まっていた。竜が二度続けて危険を告げたのは、この年になって初めてのことだった。カルダン王は寝間着の上に外套を羽織っただけの姿で玉座に着き、震える声で命じた。

「北の谷と、東の峠。両方に、我が息子たちを向かわせよ」

長子ハイレンと次子ヴィーコが召集の間に姿を見せたとき、二人はまだ具足の紐も結び終えていなかった。兄のハイレンは弟の肩を軽く叩き、「案ずるな、竜がここまで騒ぐのだ、よほどの伏兵に違いない。北の谷は私が受け持つ」と笑ってみせた。ヴィーコもまた「兄上こそ油断召さるな。峠の方は私に任せていただきたい」と応じ、二人はいつもと変わらぬ調子で肩を並べて広間を後にした。その様子には、これが今生の別れになるという予感の欠片もなかった。

長子ハイレンと次子ヴィーコは、それぞれ手勢を率いて夜明け前に城を発った。ミラは竜舎の窓から、松明の列が二筋、闇の中へ分かれていくのを見送った。ラティエルはその光景を、瞳の奥に痛みを浮かべたまま見つめていた。

「なぜ、そんな顔をするの」

「あの二つの光は、同じ谷の、同じ濃霧の底へ向かっている。……そんな気がしてならない」

ミラは息を呑んだ。だが竜の声は、確信ではなく、恐れに近い震えを帯びていた。ラティエルの目は、まだ形になりきらない危険の輪郭しか捉えられない。それが敵の伏兵なのか、天候の悪さなのか、あるいは――もっと別の何かなのか、竜自身にもわからなかった。

三日後、峠から戻った斥候の一人が、蒼白な顔で王城に駆け込んできた。

濃い朝霧の立ちこめる谷底で、東から進んだヴィーコの軍と、北から回り込んだハイレンの軍が、互いを敵国の伏兵と見誤り、切り結んでしまったのだという。霧が晴れた時にはすでに、両軍の旗印は泥と血にまみれ、見分けがつかなくなっていた。ハイレンもヴィーコも、互いの手にかかって命を落としていた。

知らせを受けたカルダン王は、玉座の間で声もなく崩れ落ちた。二人の息子を、外敵の刃ではなく、互いの刃で失ったという事実は、老王の胸を刃そのものよりも深く抉った。侍従たちが差し伸べる手を払いのけ、王はしばらくの間、誰の声にも応えようとしなかった。城下では鐘楼が喪の鐘を三日三晩鳴らし続け、久方ぶりに取り戻したはずの平穏が、ひとつの葬列の下でたちまち色褪せていった。

竜舎では、ラティエルが低く唸り続けていた。

「守れなかった。危うきを見る目を持ちながら、何ひとつ守れなかった」

ミラは震える竜の首筋にそっと手を当てた。竜の鱗は、いつもより冷たく感じられた。

「あなたのせいじゃない。あなたは危険を告げた。それをどう使うかは、人の側の仕事だったはず」

「だが、我が声を、王はこう聞き分けるべきだった。二つの影が、互いに敵ではなく、互いこそが危うさそのものになるとは……我の目は、そこまで見通せなかった」

ラティエルの声には、これまでミラが聞いたことのない自責の色があった。竜は完璧な予知の目を持つわけではなく、ただ危うさの気配を捉えるだけの、未熟な若竜に過ぎない。その事実に、ラティエル自身が初めて打ちのめされているのだと、ミラにはわかった。彼女はその夜、竜の傍らを離れず、夜明けまでラティエルの震えが収まるのを見届けた。二人の間には、これまでの餌やりや世話とは違う、痛みを分け合う絆のようなものが、静かに根を張り始めていた。

「ラティエル。もし次に何かを感じたら、たとえ形にならなくても、私にだけは教えて。あなたの言葉を、誰よりも真剣に聞くと約束する」

竜は答える代わりに、そっとミラの手のひらに鼻先を押し当てた。それが、竜にできる精一杯の返事だった。

三 東方の女王

亡骸を引き取るため、カルダン王は自ら谷へと赴いた。

老いた王が霧の晴れた谷底に立ったとき、そこには変わり果てた二人の息子の姿だけでなく、思いがけない人影があった。谷の外れの天幕から現れた、東方シャマハン出のひとりの女――名をシャマラといった。彼女は自らを、二軍の衝突に巻き込まれた旅の女王だと名乗った。夜露に濡れた黒髪と、感情の読めない静かな双眸を持つその姿は、戦の惨状の中にあってさえ、不思議なほど乱れがなかった。

シャマラの美しさは、王の悲嘆を一瞬にして塗り替えるほどのものだった。息子たちの亡骸を前にした涙も乾かぬうちに、カルダン王はこの見知らぬ女に心を奪われ、彼女を王都へと連れ帰った。従者たちは誰ひとりその判断に異を唱えなかったが、誰もが心のどこかで、老王の悲しみが行き場を失って別の何かにすり替わっただけだと感じていた。

「なぜ、あの方はあの女を連れ帰ったのだろう」

凱旋とも呼べぬ沈痛な行列が城門をくぐるのを、ミラは竜舎の窓から見下ろしていた。隣でラティエルが、瞳の赤を暗く沈ませていた。

「わからない。ただ、あの女からは……我の目にも捉えきれない、妙な静けさを感じる」

「静けさ?」

「危うさとも違う。まるで、嵐の中心にいるような……何もかもが決まってしまった後の、静けさだ」

ミラにはその感覚がうまく理解できなかったが、ラティエルの声に滲む困惑だけは伝わってきた。竜の予知の目は、迫り来る危険には敏感でも、すでに定まってしまった運命の気配にはうまく反応できないのかもしれない。

シャマラを迎えてからの王城は、日を追うごとに変わっていった。カルダン王は政務を顧みず、シャマラの住む離宮に籠もる日が増えた。かつて息子たちを喪ったばかりの王が、これほど早く新しい寵愛に溺れていく様を、家臣たちは眉をひそめて見ていたが、誰も面と向かって諫める者はいなかった。宮廷の女官たちの間では、シャマラが夜ごと離宮の露台にひとり佇み、東の空をじっと見つめているという噂がまことしやかに囁かれたが、その噂もやがて、王の寵愛の前ではただの好奇の種として消費されていった。

竜舎を訪れるオルシンの表情も、日に日に沈んでいった。ある夜更け、ミラは竜舎の下の階段で、独り言のように漏らすオルシンの声を聞いてしまった。

「時が満ちた、か。……よりにもよって、こんな形で」

「オルシン様」

声をかけると、老星読みは驚いたように振り返り、それからひどく疲れた笑みを浮かべた。

「ミラよ。……お前には、いずれ話さねばならぬだろうな。だが今はまだ、その時ではない」

「オルシン様は、何かを恐れていらっしゃるのですか」

「恐れているのではない。……ただ、覚悟を決めかねているだけだ。長く生きすぎると、正しいと信じたことを実行に移すだけの気力を、時に失ってしまうものらしい」

それ以上は何も語らず、オルシンは杖をつきながら塔を下りていった。ミラはその背中を見送りながら、竜の瞳に揺れていたあの小さな陰の正体が、少しずつ形を持ち始めているのを感じずにはいられなかった。

その頃から、王のラティエルに対する態度にも、微妙な変化が表れ始めていた。竜が夜ごと不穏な唸り声を上げても、王はもはや耳を貸そうとしなかった。

「あの竜の目とやらは、我が子らを守れなかったではないか」

侍従の前でそう吐き捨てる王の言葉が、竜舎にまで伝わってくることもあった。ラティエルはそれを黙って受け止めるだけで、弁明ひとつしなかった。ミラだけが、竜のそばで、その静かな傷つき方に気づいていた。かつては王自らが竜舎に足を運び、ラティエルの警告に耳を傾けていたことを思えば、その距離の広がりようは、誰の目にも明らかな変化だった。

四 誓いの代償

秋も深まったある夜、離宮での小さな祝宴の席に、オルシンは杖を頼りに現れた。灯火に照らされた老星読みの顔は、これまでミラが見たどの夜よりも青ざめ、それでいて、ひとつの決意に凪いでいるようにも見えた。

「陛下。かつての誓いを、今こそ果たしていただきたい」

老星読みの声は、朗々と広間に響いた。カルダン王は、酒杯を片手にしたまま眉をひそめた。

「誓いとは」

「竜を贈った折、私は申し上げました。いつか望むものをひとつ、必ずお与えいただきたい、と」

オルシンは、静かにシャマラの座る方角へ目を向けた。広間の楽団が、示し合わせたわけでもないのに、いつの間にか演奏の手を止めていた。

「私が望むのは、その女人。シャマラ様を、私にお譲りいただきたい」

広間の空気が凍りついた。カルダン王の顔から、みるみる血の気が失われ、代わりに紫がかった怒りの色が広がっていった。

「たかが星読み風情が、何を血迷ったことを」

「誓いは誓いにございます、陛下。竜がその証人にございましょう」

その名を出されて、竜舎で異変を感じ取っていたラティエルは、すでに広間の外、露台の下まで飛来していた。開け放たれた窓の外で、ラティエルは息を潜め、赤い瞳で広間の様子をうかがっていた。ミラもまた、竜の背にしがみつくようにして、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。

「黙れ」

カルダン王は立ち上がり、腰の剣に手をかけた。

「息子たちを喪った悲しみの中、我が唯一見出した慰めを、たかが対価などという言葉で奪おうというのか」

「陛下がお立てになった誓いにございます。破れば、この身に何が返るか――」

オルシンの言葉は、最後まで続かなかった。激昂した王の剣が一閃し、老星読みの体を貫いていた。広間に悲鳴が上がり、オルシンはそのまま崩れ落ちた。倒れる寸前、老星読みの視線は一瞬、露台の窓の外――ラティエルのいる闇の方角へと向けられた気がした。それが偶然だったのか、最後の伝言だったのか、確かめる術はもうどこにもなかった。

「オルシン様!」

露台の下から、ミラの叫びが上がった。ラティエルの瞳が、これまでにない激しさで赤く燃え上がった。

「破られた……誓いが、破られた」

竜の声は、低く、しかしはっきりとミラの耳に届いた。

「我はこの誓いの証人として生を受けた。オルシン殿が卵に込めた掟は、ただひとつ――誓いを違えし者を、見逃してはならぬ、というものだ」

「でも、ラティエル。陛下はあなたを育ててくれた。あなたを、ずっと守ってくれた……」

「わかっている」

竜の声が、初めて震えた。

「我は陛下に忠実であろうとした。危うきを告げ、命の限り守ろうとした。だが、我が忠義と、我が掟とは、そもそも同じ根から生まれたものではない。忠義は、我が選んで捧げたもの。掟は、我が生まれながらに背負わされたものだ」

ラティエルは翼を大きく広げた。

「オルシン殿は、我にこう告げていた。――いつか、この二つが引き裂かれる日が来るだろう、と。それが、今宵だとは思わなかった」

竜は一度、ミラの方を振り返った。赤い瞳に浮かんでいたのは、怒りでも復讐心でもなく、深い、深い痛みだった。

「ミラ。お前まで巻き込むわけにはいかない」

そう言うと、ラティエルはミラを露台の陰にそっと下ろし、独り、広間の窓へと向き直った。

五 竜の裁き

広間では、家臣たちがオルシンの亡骸を取り囲み、王は肩で息をしながら剣を提げていた。シャマラだけが、玉座の傍らで、その一部始終をひどく静かな眼差しで見つめていた。誰も気づかなかったが、その口元にはかすかな、何かを見届けるような色が浮かんでいた。

「陛下」

ラティエルの声が、窓の外から広間に低く響いた。誰もが振り返る中、竜はゆっくりと広間へ舞い降りた。

「オルシン殿は、我が名付け親であり、我が掟の生みの親だ。彼が卵に込めたのは、ただひとつの理――誓いを違えし者を、我は見逃さぬ、というもの」

「ラティエル……」

カルダン王の声から、怒気が急速に萎え、代わりに恐れが滲み出した。かつてこの竜が、我が子らの死を告げ、忠実にこの身を守ってきたことを、王自身も知っていた。

「頼む。……我は、我が子らを喪ったばかりの身だ。せめて、この一つだけは」

「陛下」

竜の声に、初めて明らかな逡巡が滲んだ。ラティエルの赤い瞳が、王の顔と、亡骸となったオルシンとの間を、幾度も往復した。忠義という名の綱が、竜の内側で軋む音を、ミラは露台の陰で息を殺しながら聞いていた気がした。永い、永い沈黙だった。広間の誰ひとり、身じろぎひとつできなかった。

けれど竜は、最後にゆっくりと目を伏せ、それから再び見開いた。

「我はあなたに忠実であろうとした。だが忠義は、掟の上には立てぬ。誓いを違えし者を見逃せば、我はもはや、我でなくなる」

竜はそれ以上、何も言わなかった。ただ静かに舞い上がると、王の頭上でひとつ旋回し、次の瞬間、その額へ鋭い一撃を下ろした。カルダン王は声もなく崩れ落ち、二度と動かなかった。

広間は静まり返った。誰もが動けずにいる中、シャマラの姿が、いつの間にか掻き消えていた。人々がそれに気づいた時には、彼女が座っていた場所には、ただ冷たい夜気だけが残されていた。誰かが慌てて周囲を探したが、離宮のどこにも、城門のどこにも、彼女の足跡ひとつ見つからなかった。

竜はしばらくその場に留まり、王とオルシン、二つの亡骸を見下ろしていた。それから静かに翼を広げ、露台の外へと飛び去った。

ミラは、塔の屋根の上でうずくまるラティエルを見つけた。竜の赤い瞳から、光る雫がひとつ、鱗を伝って落ちていくのが見えた。

「ラティエル」

「これは、復讐ではない」竜は、誰に言うともなく呟いた。「気まぐれな罰でもない。……我が、我であり続けるために、なさねばならなかったことだ」

ミラは何も言わず、竜の首筋に寄り添った。忠義と掟、そのどちらも捨てることのできなかった竜の孤独を、言葉で慰める術を、彼女はまだ持たなかった。ただ、隣にいることだけが、今の自分にできる唯一のことだった。二人はそのまま、夜が白み始めるまで、屋根の上で寄り添い続けた。

その後の王城で、シャマラの行方を知る者は誰もいなかった。ただ、彼女が座っていた席の周りにだけ、いつまでも夜露のような冷たさが残っていたという者が、ひとりふたりといた。誰かが囁いた。あの女もまた、誓いという名の掟に連なる、何か別のものだったのではないか、と。真偽を確かめる術は、もはやどこにも残されていなかった。

ヴォルダニアの王座は、その後遠縁の血筋へと渡り、竜との盟約は改めて結び直された。だがラティエルは、二度と人の前に姿を現さなかった。ただ、月の明るい夜にだけ、北の峰の稜線を横切る影を見たと語る者が、城下に絶えることはなかった。

ミラは、竜舎だった塔の一室に住み続け、誰にともなく、あの夜の竜の言葉を語り継いだ。忠義とは、時にただ従うことではなく、己の掟を貫いてなお、誰かを想い続けることなのだと。ラティエルの孤独な選択を、彼女だけは、最後まで裁くことをしなかった。

本作はアレクサンドル・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин)の『Сказка о золотом петушке(金の雄鶏の物語、プーシキン最後の韻文童話。1834年執筆、1835年『Библиотека для чтения(読書文庫)』誌初出)』を参考にした作品です。原典