竜は玉座を望まなかった
故郷を逐われた若い竜は、翡翠京の帳の奥に隠れ棲み、恐れられることで身を守りながら『大君』を演じ続けた。西の影狩りを討ち果たした少女澪たちの前で帳は破れ、竜は望郷と孤独に耐えかねて、ついに仮面を脱ぎ捨てる。
一 枯野郷の風
枯野郷(かれのごう)は、灰の荒野(はいのこうや)の縁に張りつくようにして在る、小さな村だった。
土は痩せ、風が吹くたびに白っぽい砂塵が畑を舐めていく。空はたいてい鈍色で、雨の少ない年には作物より先に人の心が乾いた。板葺きの屋根は軒並み傾ぎ、井戸端に集う女たちの話題も、いつも同じ天気と借財のことばかりだった。澪(みお)は物心つく前に両親を荒野の道で亡くし、それからずっと、伯母の三重(みえ)と伯父の惣一(そういち)の家で育てられてきた。二人とも無口で愛想がいいとは言えなかったが、澪にひどい言葉をかけたことは一度もない。ただ、この村で生きるということそのものが、笑うことを少しずつ忘れさせていくのだと、澪は子供心に察していた。
夕餉の粥をすすりながら、伯父の惣一が呟くように言うことがある。
「今年も畑は駄目だろうな」
三重はそれに答えず、ただ澪の茶碗に粥を足すだけだった。豊かさとは無縁の暮らしの中で、澪の日々にわずかな彩りを添えるのは、黒い毛並みの小さな犬、豆助(まめすけ)だけだった。豆助は捨てられていたところを澪が拾い、以来片時も離れず後をついてくる。畑仕事の合間、境界石に腰かけて豆助の頭を撫でているときだけ、澪は肩の力を抜くことができた。
村の年寄りたちは、井戸端でよくこんな話をした。荒野の彼方から幾世代かに一度、家ごと人をさらう「彷徨い風(さまよいかぜ)」が訪れる、と。さらわれた者は、緑が絶えて枯れることのない国へ運ばれるのだという。今ではただの言い伝えとして笑い話にされていたが、どの家にも、風から身を守るための地下の貯蔵庫だけは、律儀に残されていた。祖母から祖母へと語り継がれてきた用心深さだけが、笑い話を笑い話のままにしておく理由でもあった。
その日の午後、澪は境界石のそばで豆助と遊んでいた。ふと顔を上げると、空が奇妙な黄色に染まり、荒野の縁で幾つもの砂塵が渦を巻いて立ち上っているのが見えた。鳥の声がしない。牛小屋の牛が、柵に体をこすりつけて落ち着かなげに鳴いている。畑の雑草までが、風もないのに小刻みに震えているように見えた。
「豆助、帰るよ」
そう言った矢先、遠くの空気そのものが低く唸り始めた。地鳴りとも風の音ともつかない響きが、腹の底まで届く。走って戻ると、伯母の三重が青い顔で戸口に立っていた。
「早く貯蔵庫へ! お前の伯父さんはもう畑から――」
言い終わらぬうちに、豆助が澪の腕から飛び出し、庭先へ駆け戻ってしまった。近づいてくる風に向かって、なぜか吠えたてている。
「豆助!」
澪は迷わず後を追った。次の瞬間、地面ごと引き剥がされるような衝撃が来て、家全体がふわりと浮き上がった。悲鳴を上げる間もなく、澪は豆助を抱きしめたまま、渦の中心でくるくると回り続けた。窓の外を、見慣れた牛小屋や井戸や畑が、ぐるぐると流れては消えていく。恐怖よりも先に、体の芯が抜けるような眩暈が澪を襲った。
どれほどの時間が経ったのか、家は不意に何かにぶつかり、大きく揺れて止まった。
恐る恐る戸を開けた澪の目に飛び込んできたのは、これまで見たこともないほど鮮やかな緑だった。木々も、丘も、空気そのものまでが、淡く発光するような翠色を帯びている。乾いた灰色の記憶しかない澪にとって、それは眩しすぎて、しばらく目を細めなければ見ていられないほどだった。家の角の下からは、黒い衣の裾と、動かなくなった二本の脚がのぞいていた。
どこからともなく、小柄な人々が歓声を上げながら集まってきた。彼らは実里人(みのりびと)と名乗り、長年、東の縛り手(ひがしのしばりて)という老いた呪術師に収穫のすべてを奪われてきたのだという。その縛り手が、澪の家の下敷きになって果てたのだった。誰かが太鼓を叩き、誰かが泣きながら笑い、老いも若きも輪になって踊り始めた。
歓喜の輪の中から、白髪の巫女が進み出た。北の巫女(きたのみこ)と名乗る彼女は、澪の前に膝をつき、縛り手の亡骸から抜き取った一対の銀の沓(ぎんのくつ)を差し出した。
「これは、亡き縛り手が長年秘めていた宝だ。娘よ、お前の家がここへ落ちてきたのは、単なる偶然ではないのかもしれない」
「わたし、故郷に帰りたいだけなんです。伯母さんと伯父さんが心配しています」
澪がそう言うと、北の巫女はゆっくりと頷いた。その目には、憐れみとも似つかない、どこか懐かしむような色があった。
「帰りたい場所があるというのは、それだけで幸いなことだ。この国にも、帰る場所を持たぬまま流れ着いた者がいる。誰にも素性を明かせず、ただ生きるためだけに、別の姿を纏い続けている者が」
「それは、どういう――」
「いずれわかる。今のお前には、まだ関わりのないことだ」
北の巫女はそれ以上を語らず、話を戻すように、静かに続けた。
「この沓には、まだ知られていない力が眠っている。お前がこの国から故郷へ帰る術を知る者がいるとすれば、それはただ一人――翡翠の山の懐に座す、大君(おおきみ)だけだろう。かの御方は、あらゆる願いを叶えるという」
北の巫女はそう告げ、丘の向こうへ延びる、淡い翡翠色の石畳――翡翠道(ひすいどう)――を指し示した。澪は銀の沓を履き、豆助を抱えて、見知らぬ緑の国の一本道を歩き出した。
二 翡翠道の道連れ
翡翠道を歩き始めて間もなく、澪は畑の中に立てられた一体の案山子(かかし)に呼び止められた。
「そこの娘、すまないが、この竿から下ろしてくれないか。もう三日もこうしている」
驚いて振り返ると、藁でできたその姿は、たしかに喋っていた。藁彦(わらひこ)と名乗るその案山子は、澪に助け下ろされると、しょんぼりと肩を落とした。
「俺は畑を守るために生まれたが、頭の中身はしょせん藁の詰め物だ。烏どもにさえ、うまく立ち回れない。ものを深く考えるということが、俺にはできないんだ。だから竿から下りる算段すら、三日かけても思いつかなかった」
「でも、ちゃんとお話しできてるじゃない」
「話すのと、考えるのとは違う。俺はいつも、みんなが決めたことについていくだけだ」
藁彦は自嘲するように笑ったが、その目にはどこか諦めきれない光があった。翡翠京の大君ならば本物の知恵ある頭を授けてくれるかもしれないと聞き及んでいるといい、澪について行くことになった。
森に入ると、雨に朽ちて動けなくなった一体の鎧が、赤錆びた声で助けを求めていた。油を差してやると、鎧はぎこちなく体を起こし、鉄次(てつじ)と名乗った。かつては森で暮らす木こりだったが、ある呪いによって胸の内側を失い、今は虚ろな金属の体だけが残っているのだという。
「愛しい人がいた。だが心を失ってからというもの、自分が誰かを想う資格があるのかどうか、わからなくなってしまった。錆びついたこの体で、雨の中じっと立ち尽くしながら、俺はずっとそれを考えていた」
「心がないなら、考えたりしないんじゃないの」
澪が首をかしげると、鉄次は乾いた笑い声を立てた。
「考えるだけなら、頭でもできる。だが、これでいいのか、と胸の奥が疼くような感覚――それがもうないんだ。あるのかどうかさえ、俺にはわからない」
鉄次もまた、大君に心を求めて旅に加わった。
道の途中、突然茂みから巨大な虎が飛び出し、豆助に向かって吠えかかった。澪が怯まず豆助をかばって前に出ると、虎は逆にびくりと後ずさり、情けない声を上げて丸くなってしまった。
「すまない、すまない! 俺は牙丸(きばまる)という。この森一番の臆病者だと、みんなに笑われている」
牙丸は、吠え声だけは誰よりも大きいのに、いざとなると足がすくんでしまう自分を恥じていた。
「さっきだって、お前より先に俺のほうが怖がって後ずさったんだ。情けないだろう」
牙丸はそう言って、太い尻尾を力なく地面に垂らした。
「森の獣たちは、俺が唸るたびに従うふりをする。だが誰も、心の底では俺を恐れていない。俺自身が、誰よりもそれを知っているからだ」
大君ならば、勇気を分け与えてくれるかもしれない――そう聞き、四人と一匹の道連れになった。歩きながら、藁彦と鉄次と牙丸は、互いの悩みを打ち明け合い、いつしか励まし合うようになっていた。誰も欠けたところを笑わず、ただ黙って隣を歩く。それだけのことが、澪にはひどく尊いものに見えた。
旅の途上、不思議なことが幾度もあった。飢えて倒れそうになった夜には、なぜか道端に乾いた木の実が積まれていた。崩れた橋の代わりに、太い倒木が都合よく渡してあった。獣道の危険な箇所には、まるで誰かが爪で払ったような跡が残っていた。焚き火を囲んだ夜、藁彦がふと言った。
「変だとは思わないか。俺たちは運がいいにしても、良すぎる」
「気のせいだろう」
鉄次はそう答えたが、その声にはわずかな戸惑いが滲んでいた。澪は胸の奥にかすかな違和感を覚えたが、それが何なのか、まだ言葉にすることができなかった。豆助だけが、夜風の匂いを嗅ぐたびに、遠くの闇に向かって小さく尾を振っていた。
やがて一行は、翡翠の山を背にそびえる都、翡翠京(ひすいきょう)に辿り着いた。城壁も屋根瓦も、すべてが磨かれた翠玉でできており、都全体がほのかな緑光をまとっていた。門をくぐる前、案内の役人は澪たちに翠色の薄い玻璃の眼鏡を手渡した。
「この光にじかに目を晒すと、しばらく物が見えなくなる。大君のご威光ゆえと言い伝えられているが」
言われるままに眼鏡をかけると、なるほど眩しさは和らいだ。だが澪はふと、この眼鏡が本当に光を和らげるためのものなのか、それとも何か別のものを見えにくくするためのものなのか、判じかねる違和感を覚えた。人々は皆、澪たちの姿を見ると道を空け、囁き合った。
「大君に会いに来た旅人か。あの帳の奥に自ら進んで入るとは」
大君は姿を見せず、山の中腹に築かれた帳の宮(とばりのみや)の奥、幾重にも垂れた帳の向こうから声だけで一行を迎えた。澪には巨大な炎の顔として、藁彦には美しい光の乙女として、鉄次には途方もない獣の影として、牙丸には小さな光の球として――大君は、訪れる者ごとにまったく異なる姿を見せるのだと噂されていた。実際、広間に通された四人は、めいめいに違うものを見たと言い張って互いに譲らなかった。
「西の荒野を統べる鴉后(あごう)を討ち、その縛りの首飾りを持ち帰るがいい。さすればおのおのの望みを叶えよう」
帳の奥から響く声は、重々しく、そしてどこか掠れていた。澪はその掠れに、なぜか一瞬だけ、疲れきった誰かの吐息のようなものを聞いた気がした。
三 西の影狩りとの決着
西へ向かう道は、灰と黒煙に覆われた荒地だった。緑豊かだった翡翠京の景色が嘘のように、一歩踏み込むごとに草木は乏しくなり、やがて焼け跡のような黒土だけが広がるようになった。鴉后は影鴉(かげがらす)と呼ばれる無数の黒い鳥を操り、逆らう者すべてを切り裂かせているという。
荒地の入り口には、朽ちた旗と、干からびた水筒がいくつも打ち捨てられていた。かつてここへ挑み、二度と戻らなかった者たちの忘れ形見だと、藁彦が乾いた声で呟いた。豆助はその匂いを嗅ぐと、珍しく低く唸り、澪の足元から離れようとしなかった。
一行が荒地の奥に踏み込んで間もなく、空を覆う影鴉の群れが襲いかかってきた。無数の黒い翼が空を塗りつぶし、鋭い鉤爪が容赦なく振り下ろされる。藁彦は爪に引き裂かれ、詰め物が四方に飛び散った。それでも藁彦は倒れた仲間の位置を的確に呼び、逃げ道を指し示し続けた。鉄次は澪をかばって幾つもの爪痕を鎧に負いながら、金属の腕で必死に鳥たちを打ち払った。
そして、これまで一度も踏みとどまったことのなかった牙丸が、恐怖に震えながらも、澪と豆助の前に立ちはだかり、影鴉の群れに向かって初めて自分から飛びかかっていった。
「牙丸、無茶よ!」
澪の叫びに、牙丸は歯を食いしばりながら答えた。
「わかってる……でも、足が、初めて震えながらも前に出た! これが、これが勇気ってやつなのか、俺にはまだわからないが!」
牙丸の巨体が黒い羽根の渦の中に突っ込み、道を切り開く。その隙に、澪たちは鴉后の塒(ねぐら)へと駆け込んだ。塒の入り口には、乾ききった水盤や、罅割れた井戸の跡が幾つも並んでいた。かつてはこの荒地にも水が湧いていた証だろうと、澪は息を切らしながら思った。奥へ進むと、黒く煤けた岩壁に、無数の爪痕が刻まれているのが目に入った。長い年月をかけて、この場所に挑み、そして敗れていった者たちが遺した傷跡なのだと、澪には直感でわかった。
鴉后は影そのものが人の形をとったような姿で、揺らめきながら澪たちを嘲るように笑った。
「小娘、お前の乾いた故郷にも、こんな澄んだ水はあるまい。この地の水はすべて、私が涸らしてしまったからな」
「なぜ、そんなことを。誰も困らせたいわけじゃないのに」
澪が思わずそう問うと、鴉后は嗤いを深くした。
「涸れた土地には、誰も逆らいには来ない。恐れる者だけが、私のものを乱さずにいてくれる。それだけのことだ」
追い詰められた澪は、とっさに腰の水筒――旅の間、故郷の井戸から汲んだ最後の一滴を惜しんで大切に持ち歩いていた、澄んだ湧き水――を鴉后に浴びせた。
鴉后は悲鳴を上げ、瞬く間に灰と黒い羽根の渦に崩れ落ちて消えた。あとに残ったのは、焦げた土の匂いと、静けさだけだった。主を失った影鴉たちは怯えたように群れをなし、鴉后が首にかけていた縛りの首飾りを咥えて澪の足元に置くと、静かに西の山へと飛び去っていった。二度と誰にも縛られず、ただ自分たちの塒へ帰りたいのだと、鳥たちの目がそう語っていた。
「行っていいのよ。誰もあなたたちを縛らない」
澪がそう呟くと、群れの一羽が澪の肩先をかすめるように旋回し、それから遠い山影の向こうへ消えていった。
四人は互いの傷を確かめ合い、藁彦の詰め物を集めて詰め直し、鉄次の凹んだ鎧を叩いて整えた。誰も多くを語らなかったが、それぞれの胸の中に、これまでとは違う何かが芽生えているのを、澪は確かに感じ取っていた。一行は縛りの首飾りを掲げ、意気揚々と翡翠京へ帰還した。
四 帳の奥の竜
帳の宮の広間で、四人は縛りの首飾りを大君に差し出した。だが帳の奥から返ってきたのは、約束の言葉ではなく、また新たな試練を仄めかす、渋るような声だった。
「よく戻った。だが、望みを叶えるにはまだ――」
痺れを切らした豆助が、帳の裾に飛びつき、思い切り引っ張った。牙丸がそれをかばおうと前足を伸ばした拍子に、幾重もの帳が音を立てて崩れ落ちた。広間の全員が、息を呑んで立ち尽くした。
そこにいたのは、機巧を操る老人でも、燃え盛る炎の顔でもなかった。痩せ細り、鱗のところどころが罅割れた、まだ若い一頭の竜だった。爪の先からは、幻影を編むための煙がかすかに立ち上っている。長く隠し続けてきた疲労が、剥き出しになった体の隅々に滲んでいた。竜は咄嗟に翼で身を覆おうとしたが、もはや隠しようもなかった。
「……この帳の裂け目は、なかったことに――」
竜はなおも取り繕おうとしたが、声はすぐに萎れて消えた。藁彦が硬い声で問い詰める。
「あんたは、俺たちを謀っていたのか。俺の頭も、鉄次の心も、牙丸の勇気も、ただの見世物のためだったのか」
竜は長い沈黙のあと、ゆっくりと語り始めた。
かつて棲んでいた山が地の底から崩れ、群れのほとんどが失われたこと。逃げ延びた者たちも散り散りになり、二度と互いの行方を知ることはなかったこと。傷を負ったまま、当てもなくこの地に流れ着いたこと。そして、恐れられる姿を纏えば、誰にも手出しされずに生き延びられると知った日のこと。
「最初は、ただ隠れるための仮面だった。だが人々は仮面の奥に本物の力を感じ取り、社を建て、祈りを捧げるようになった。祈られるということが、私にはひどく奇妙で、それでいて――どうしようもなく、温かかった」
「私は、玉座など望んだことはない。ただ、生き延びるために恐れられる仮面が要った。だが仮面をかぶり続けるうちに、この都の民が私に向ける祈りが、いつしか本物の温もりのように思えてしまった。恐れられることでしか、誰かと繋がる術を知らなかったのだ」
竜は、藁彦が飢えかけた夜の木の実も、鉄次のために渡された倒木も、牙丸の逃げ道に払われた爪痕も、すべて自分の仕業だったと打ち明けた。
「お前たちが望むものを、私が魔法で作り出せるわけではない。ただ、遠くから見ていることしかできなかった。それでも、見ていたかった。誰かの役に立てているのだと、そう思わなければ、この孤独に耐えられなかったから」
藁彦は裏切られた怒りに拳を握りかけたが、荒野の旅を思い返し、ふと口をつぐんだ。影鴉の群れを前に、真っ先に逃げ道を的確に呼んだのは、他ならぬ自分自身だったと、藁彦は今さらのように気づいていた。
「……木の実をくれたのはあんたかもしれない。でも、道を選んだのは俺だ」
鉄次もまた、澪をかばい傷を負ったあの瞬間、確かに誰かを想う心が己の裡にあったことを、静かに噛みしめていた。
「倒木を置いたのがあんたでも、澪をかばおうと動いたこの体の疼きまでは、あんたのものじゃない」
牙丸は、震える足で前に出た自分を思い出し、もう何も言わなかった。ただ、大きな体を丸めて、竜の前に静かに伏せた。
澪はただ、竜の目をまっすぐに見つめた。両親を亡くし、灰色の村で育った自分と、故郷を失い仮面の下に隠れ続けたこの竜と、どこか重なるものがある気がした。
「あなたは、もう隠れなくていい」
五 望郷へ翔ぶ
竜は藁彦に、鱗の欠片を編み込んだ小さな束を渡した。
「これはお前に知恵を授けるものではない。お前がすでに持っていた知恵を、忘れないための印だ」
鉄次には、心臓のあるべき位置に添えられる、小さな鱗の飾り石を。牙丸には、爪の形をかたどった小さな護符を。どれも力を宿すものではなかったが、三人はそれを、これまでのどんな宝よりも大切そうに受け取った。藁彦は照れくさそうに束を胸元に押し込み、鉄次は飾り石をそっと鎧の合わせ目に挟み、牙丸は護符を首にかけて何度も頷いた。
北の巫女が再び姿を現し、澪の足元の銀の沓を指差した。
「その沓は、初めからお前を故郷へ運ぶ力を持っていた。ただ強く故郷を想い、三歩踏み出せばいい」
澪は豆助を抱き上げ、竜を振り返った。
「あなたも、探しに行けばいい。まだ故郷の欠片が残っているかもしれない場所を」
竜はしばらく黙り、それから初めて、仮面ではない、素のままの声で笑った。
「ありがとう。恐れずに、私を見てくれて」
竜は最後の幻影の煙をふっと払うと、傷だらけの若い姿のまま、帳の宮の高みから飛び立った。翡翠京の人々は空を見上げ、光の筋が西の山並みの向こうへ消えていくのを、ただ黙って見送った。藁彦と鉄次と牙丸は、翡翠京の外れにささやかな家を構え、互いの傷を労わりながら暮らしていくのだと、澪に約束した。
澪は銀の沓のかかとを三度打ち合わせ、強く枯野郷を想った。
気づけば澪は、見慣れた庭先に立っていた。豆助が足元で嬉しそうに尾を振っている。伯母の三重が驚いた顔で駆け寄ってきて、澪を強く抱きしめた。伯父の惣一は何も言わず、ただ澪の頭を大きな手で撫でた。
村の暮らしは、以前と変わらず地味で、灰色がかっていた。誰に話しても信じてはもらえないだろうと、澪は緑の国のことを多くは語らなかった。ただ伯母の三重にだけ、ある夜、囲炉裏端でぽつりぽつりと打ち明けた。三重は黙って聞き終えると、澪の手を握り、こう言った。
「帰りたいと強く想える場所があるなら、それがお前の故郷なんだろうね。行った先がどこであれ」
澪は、夕暮れに西の空を仰ぐたび、あの若い竜が今もどこかで故郷の欠片を探しているのだろうかと、そっと思いを馳せるようになった。誰にも恐れられず、誰かに祈られることもなく、ただありのままの姿で受け入れてくれる場所を、竜が見つけられますようにと願った。そんな日はきまって、乾いた荒野からではない、どこか湿り気を帯びた優しい風が、頬をかすめて吹き抜けていくのだった。