物語雳
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·読了目安 14分主役

竜は爪痕を忘れなかった

毎年山から鉱石と香草を担いで下りてくる若い竜は、商家の幼い娘に懐かれ、遠い巣に残した我が子を思い出しながらその時間だけを心の支えにしていた。だがある諍いの末に幽閉され、幾年もの時を経て解き放たれた日、娘はもう彼を覚えていなかった。

一 潮路の湊、秋ごとの客人

秋になると、潮路の湊には遠い山の匂いがした。

魚と塩の匂いにまじって、乾いた土と、名も知らぬ薬草の匂いが風に乗ってくる。それが届くころになると、私は決まって店先の暖簾を一枚多く洗い、女房は米を余分に研いだ。連山の奥、人の足では幾月もかかるという竜の郷から、鉱石と香草を担いで行商に下りてくる者たちが、湊の市に姿を見せる季節だからだ。彼らは崖沿いの隘路と、幾つもの峠を越えて、雪が本降りになる前のわずかな時期だけ、里へ下りてくるのだという。

その中に、毎年欠かさず私の店――乾物と染料を商う「潮屋」を訪ねてくる一人の若者がいた。名を巌(いわお)といった。日に焼けた浅黒い肌に、無口だが柔らかな物言いをする男で、いつも長い袖の外套を纏い、両手には厚い革の手甲を嵌めていた。誰も彼の素顔を疑いはしなかったが、湊の年寄りたちは声を低めてこう言った。あれは人の姿を借りているだけの竜だ、と。

本当かどうか、私は長らく確かめようとはしなかった。巌が担いでくる鉱石は不純物がなく、香草はどこよりも香り高く、しかも彼は一度たりとも量を誤魔化したことがなかった。それだけで、商売人としては十分すぎる相手だった。女房は最初のうち、素性の知れない山の男を家に上げることをひどく嫌がった。

「爪を隠しているような男に、うちの子を近づけるんじゃないよ」

女房は幾度もそう私を咎めた。湊の女たちの間でも、竜の血を引く者は気まぐれで、機嫌を損ねればひと呑みに人を呑み込むのだと、まことしやかに囁かれていた。私自身、初めて巌と帳場を挟んで向かい合ったときには、正直なところ、膝の震えを抑えるのに苦労したものだ。彼の瞳は薄い金色を帯びていて、こちらの噓や下心を見透かすような、静かな光をたたえていたからだ。

だが、当の娘は違った。

芽依(めい)は、その年ちょうど五つになったばかりだった。物怖じしない性質で、巌が店先に大きな背負い籠を下ろすなり、裾を引っ張って纏わりついた。私は慌てて娘を引き離そうとしたが、巌はそれを手で制し、床几に腰を下ろして、芽依と目の高さを合わせた。

「やまのおじちゃん、こんどはなにをもってきたの」

巌は初め戸惑ったように立ち尽くしていたが、やがて手甲の隙間からわずかに覗く、鱗にも似た灰色の指先で、そっと芽依の頭を撫でた。その仕草があまりに慎重で、壊れ物にでも触れるようだったので、私は毒気を抜かれた思いがした。爪を隠した男が、これほど繊細な手つきを持っているとは、思ってもみなかったのだ。

「今年は、山の蜜と、乾かした赤い実だ」

低く、石を擦り合わせたような声で、巌はそう答えた。芽依はそれだけで顔を輝かせ、籠の中身をあれこれ覗き込んでは、はしゃいだ声を上げた。赤い実を一粒つまんで口に含み、「あまい」と目を丸くする娘の様子を、巌はしばらくのあいだ、飽きもせずに眺めていた。その眼差しには、商いに来た者が客を見る目つきとは、明らかに違う何かがあった。

そうして始まった付き合いは、その日一日きりでは終わらなかった。巌は秋のあいだ、幾度も潮屋の店先に立ち寄るようになった。荷を下ろす合間に、芽依の相手をしてやり、時には私の帳場の隅に腰を下ろして、遠い山の話を聞かせてくれることもあった。峰を吹き抜ける風の音、渓谷に落ちる滝の轟き、雲海の上に頭を出す郷の集落の様子――彼の語る山の景色は、湊で生まれ育った私たちには、遠い異国の物語のように聞こえた。

一つだけ、気にかかることがあった。市の喧騒がひとしきり収まったころ、巌はふと手を止めて、湊の向こうに連なる青い山影のほうへ、長いあいだ目をやることがあった。その横顔には、商いに来ている者の顔つきとは違う、何か重たいものを抱えているような翳りがあった。腰の帯には、いつも小さな革の巾着が下がっていて、彼はそれを、誰に見せるでもなく、時折そっと指先で確かめていた。

「あれは何なんだい」

一度、それとなく尋ねたことがある。巌は少し黙ってから、ただ「大事なものだ」とだけ答えて、それ以上は語らなかった。私もまた、深くは聞かなかった。誰しも、他人には明かせない荷を一つくらい抱えているものだと、その頃はまだ、軽く考えていたのだ。日暮れの鐘が鳴ると、巌はいつも決まって、私たちが止めるのも聞かずに、その日のうちに宿へと引き上げていった。里に長く留まることを、どこか自分に禁じているようにも見えた。

思えば、巌が初めて潮屋の暖簾をくぐったのは、芽依がまだ乳飲み子で、女房の背に負ぶわれてようやくあやされていた頃のことだった。あのときはただ、鉱石を売り込みに来た無愛想な行商人の一人としか見ていなかった。それが幾年か経つうちに、いつの間にか秋の訪れを告げる、なくてはならない客人になっていたのだから、人と人との縁というのは不思議なものだ。

二 巌と芽依、鉱石と香草の道

年月というのは、こういうとき呆気ないほど早く過ぎる。

芽依は六つになり、七つになり、市の日が近づくたびに「もう山のおじちゃんは来る?」と、私や女房を急かすようになった。巌のほうも、湊に降りてくるたびに、必ず真っ先に潮屋の暖簾をくぐった。よその店にも顔なじみはできていたようだが、彼が長く腰を落ち着けるのは、いつも私の店だけだった。

ある年の秋、芽依が熱を出して寝込んだことがあった。折悪しく、その年は巌が来る日と重なっていた。私は市に出るのを諦め、店先で薬を煎じていたのだが、日が傾くころ、巌がわざわざ裏口から顔を出した。

「具合が悪いと聞いた」

彼はそう言うと、背負い籠の底から、見たこともない乾いた花弁を取り出し、これを煎じて飲ませるといいと差し出した。郷でしか採れない、熱を下げる薬草だという。半信半疑で試してみると、その晩のうちに芽依の熱は嘘のように引いた。それから私は、巌の言葉を疑うことを、ほとんどしなくなった。

夜、市の片付けが終わったあとに、巌が珍しく手甲を外して見せてくれたことがある。行灯の薄明かりの下で、彼の指先は確かに、人のそれではなかった。細かな鱗がびっしりと並び、爪は薄く鋭く尖っていた。だが、その爪で芽依の絵草紙をめくる仕草は、驚くほど優しかった。

「郷にも、これくらいの背丈の仔がいる」

ぽつりと、巌はそう漏らした。私は思わず箸を止めた。

「息子さんか」

「まだ翼が生え揃わない。飛べぬまま、巣で母竜と留守を待っている」

彼はそう言ってから、腰の巾着にそっと手をやった。私はそのとき初めて、あの巾着の中身が、故郷に残してきた我が子に関わる何かなのだろうと察した。だが、巌はそれ以上多くを語らず、また淡々と鉱石の目方を量る話に戻っていった。それでも、彼が「仔」と口にするときの声の低さには、これまで聞いたことのない柔らかさが滲んでいた。

芽依は、巌のことを「山のおじちゃん」と呼びながらも、彼が人ではないことをうっすらと分かっていたようだった。子供というのは、案外そういう機微には敏感なものらしい。それでも、恐れる素振りは一度も見せなかった。むしろ、彼の掌に自分の小さな手を重ねては、「おじちゃんの手、つめたくて、きれい」と無邪気に笑っていた。巌はそのたびに、困ったように、けれど嬉しそうに目を細めた。

女房も、いつの間にか態度を和らげていた。巌が運んでくる薬草のおかげで、長患いだった隣家の年寄りが持ち直したという話が広まったこともある。「爪を隠した男」という陰口は、いつしか湊から聞こえなくなっていた。

私自身、商いの相談を巌に持ちかけることも増えていった。彼は目方の勘定に厳しく、決して他人を騙すような真似をしなかった。それでいて、値切り交渉になると存外に折れやすく、困っている家には、こちらから頼まずとも薬草を安く分けてやっていた。

「山では、困った者に値をつり上げる真似はしない。郷の仕来りだ」

そう言って笑う巌の顔を見るたびに、私は彼がただの行商人以上の何かを――故郷への忠義とでも呼ぶべきものを、その背に負っているのだと感じていた。

事が起きたのは、芽依が十一になった年の、秋の終わりだった。

湊で金貸しを営む蟹屋の元締めの下で、取り立てを任されている徳蔵という男がいた。強面で通っていて、支払いの遅れた商人からは容赦なく利を絞り取ることで知られていた。その徳蔵が、巌の荷から出た鉱石の目方を巡って、言いがかりをつけてきたのだ。

「この量では、代官への納めが足りん。お前、ごまかしたな」

巌は静かに、量り直しに応じると答えた。何度計り直しても、目方に狂いはなかった。だが徳蔵は聞く耳を持たず、市の衆の面前で恥をかかされたことに腹を立てたのか、いきなり巌の腕を掴み、手甲を無理やり剥ぎ取ろうとした。

「化け物の正体、みなに見せてやろうじゃねえか」

「放してくれ」

巌の声には、初めて聞く硬さがあった。振りほどこうとした拍子に、剥き出しになった彼の指先が、徳蔵の腕をかすめた。浅い傷だったはずだが、裂けた袖から血が滲むのを見た周囲の者たちは、悲鳴を上げて後ずさった。

「化け物だ、竜が正体を現したぞ」

誰かがそう叫ぶと、市はたちまち騒然となった。代官の手の者が駆けつけたときには、巌はすでに大勢に取り囲まれ、身動きが取れなくなっていた。私は人垣をかき分けて前に出ようとしたが、槍の柄で押し戻され、それ以上近づくことはできなかった。

「傷を負わせたのは事実だ。それも、爪という凶器で」

代官はそう言い放ち、竜封じの鎖――冷たい鉄と呪の混じった、変化と飛翔を封じる特別な鎖を巌の両腕と背に打ち込ませた。巌は抵抗一つせず、ただ深く項垂れたまま、湊の見張り塔の地下牢へと引き立てられていった。連れて行かれる間際、彼の目が一瞬、遠くの人垣にいた私と芽依のほうを捉えた。その眼差しに宿っていたのは、恨みでも怒りでもなく、ただひたすらに申し訳なさそうな、諦めにも似た色だった。

三 諍いと鎖、地下牢

私は幾度か、見張り塔に足を運んだ。

事の次第を訴えようにも、代官の役人は取り合ってくれなかった。「爪を剥き出しにした以上、獣としての罰は免れぬ」の一点張りだった。差し入れを頼んでも門前払いされることが続き、そのうち私自身、通うことに疲れを覚えるようになっていった。芽依は、巌がいなくなったことをしばらく寂しがっていたが、子供の記憶というのは移ろいやすいもので、季節が二つ三つと巡るうちに、「山のおじちゃん」の話をする回数は少しずつ減っていった。

私自身も、恥ずかしいことだが、次第に足が遠のいた。生業に追われ、日々の暮らしに巻き込まれていくうちに、罪悪感だけを抱えたまま、見張り塔を仰ぎ見ることさえしなくなっていった。湊の景色も少しずつ変わり、新しい問屋が軒を連ね、蟹屋の元締めは羽振りを増し、徳蔵はその一件でかえって顔役として名を上げたという皮肉な噂も耳にした。人の心の弱さというのは、こうしてなし崩しに、大切なものを置き去りにしていくものらしい。

夜更け、寝所で女房に問われたことがある。「あんた、まだあの人のことを気に病んでるのかい」と。私は曖昧に首を振るばかりで、はっきりとは答えられなかった。巌を助けたいという思いはあった。だが、代官に楯突いてまで動く勇気は、恥ずかしながら私にはなかった。芽依が健やかに育っていくのを見守るだけで手一杯だという言い訳を、私は自分自身に何度も言い聞かせていた。

風の噂で、地下牢の巌の様子を耳にすることはあった。湿った岩壁に繋がれたまま、鱗は艶を失い、翼は鎖に擦れて醜く爛れているという。それでも彼は暴れることも、逃れようとすることも一切なかったそうだ。ただ、腰に――いや、今はぼろぼろになった衣の合わせ目に、小さな巾着だけは肌身離さず持ち続けている、と。牢番の一人が、酒の席でそんなことを漏らしていた。

幽閉されて幾年もの月日が流れるあいだ、季節は幾度も巡った。冬には牢の隙間から吹き込む潮風が骨まで凍らせ、夏には湿った岩肌に黴の匂いが立ち込めた。牢番が幾人か代わり、代官の顔ぶれさえ入れ替わり、湊の様子までもが少しずつ移ろっていくなかで、巌だけは変わらぬ姿勢のまま、闇の奥にうずくまり続けていた。日の光を数えることも、めぐる季節の名を口にすることもやめてしまったように見えたが、それでも彼は、腐りかけた藁の寝床の上で、ただ静かに息を潜め、その時が来るのを待ち続けていた。時折、遠く頭上の格子窓から差し込むわずかな光の角度だけが、彼にとって季節を知る唯一のしるべだったという。

年月は容赦なく流れ、芽依は十七になった。器量よしとの評判が立ち、廻船問屋の若旦那から縁談が持ち込まれたのは、その年の初夏のことだった。話はとんとん拍子に進み、秋の初め、ちょうど巌がかつて毎年下りてきていたのと同じ季節に、祝言が執り行われることに決まった。祝いの支度に湧く店先を眺めながら、私はふと、あの巾着を肌身離さず持ち続けているという竜のことを思い出し、胸の奥がちくりと痛んだが、それも束の間のことで、すぐに祝言の支度に紛れて忘れてしまった。

その報せが届いたのと前後して、見張り塔からも一つの報せが届いた。長年の湿気と潮風に晒され続けた竜封じの鎖が、根元からすっかり錆び朽ちていたのだという。もはや器としての用をなさぬと判じられ、巌は罪一等を減じられたうえで、放免されることになった。

四 解き放たれた日、忘れられた顔

放免されたその日、巌が真っ先に向かった先は、潮屋だった。

痩せ細り、鱗はくすんだ灰色にひび割れ、翼は歪な形に固まってしまっていた。それでも彼は、覚束ない足取りで、迷うことなくかつての道を辿ってきたのだという。皮肉なことに、その日はちょうど、芽依の祝言の日だった。

潮屋の店先には紅白の幕が張られ、近隣の者たちが晴れ着姿で列をなしていた。三味線の音と笑い声が満ちる中、そこへ、ぼろを纏い、ひどく異形な影が近づいてくるのを見て、居合わせた者たちは色を失った。

「化け物だ、祝いの席に何をしに来た」

若い衆の何人かが棒を手に取り、巌を追い払おうと前に出た。私は騒ぎを聞きつけて表に飛び出し、その異形の輪郭に、かつて見た巌の面影を見出して、息を呑んだ。彼の翼の付け根には、鎖が長年食い込んでいた痕が黒く残り、歩くたびに、体全体が小さく傾いだ。

花嫁衣裳に身を包んだ芽依も、人だかりの向こうから、その異様な来訪者に目をやった。だが、その瞳に浮かんだのは、驚きだけだった。

「父上、あれは……何の見世物でしょう」

無邪気にそう尋ねる娘の声を聞いて、私は胸を貫かれるような思いがした。芽依はもう、巌の姿を覚えていなかった。あれほど纏わりつき、あれほど懐いていた「山のおじちゃん」の面影は、十七になった娘の記憶から、跡形もなく消え去っていたのだ。

巌は、その言葉を聞いても、表情一つ変えなかった。ただ、疲れきった瞳で、晴れ着姿の芽依をしばらく見つめていた。かつて自分の膝に乗せてあやした娘が、こんなにも美しい花嫁になったことを、静かに噛みしめているようにも見えた。そこに責める色はなく、ただ静かな諦観だけがあった。

「もう、いい」

低く呟くと、巌はゆっくりと踵を返そうとした。棒を構えた若い衆が、なおも追い立てようと間合いを詰める。

五 掌の跡、山への道

「待て」

私は思わず声を上げ、若い衆を制して巌との間に割って入った。近くで見る巌の姿は、思っていた以上に痛ましかった。鎖の擦れた痕が、翼の付け根に深く刻まれ、二度と癒えることのなさそうな傷になっていた。潮風に晒され続けた鱗は、かつての艶を失い、まるで枯れた木の皮のようだった。

巌は震える指先で、ぼろの合わせ目から、小さな革の巾着を取り出した。あの、市に来るたびに帯から下げていた巾着だった。彼はそれを開き、掌に載せて、私に見えるよう差し出した。

中から現れたのは、一片の乾いた粘土だった。表面には、小さな、けれど確かに爪の形をした跡がいくつも、そっと刻まれていた。

「郷に残した仔の爪だ。まだ、翼の生え揃わぬ仔の……最後にこの手で撫でたときに、粘土に写し取った」

牢の中でも、この一片だけは奪われずに済んだのだと、巌は掠れた声で続けた。牢番たちも、その粘土の欠片がただの土くれにしか見えなかったのだろう、取り上げようとはしなかったのだという。鎖に繋がれ、翼を痛めつけられる幾年ものあいだ、彼が縋っていたのは、恨みでも、復讐の念でもなかった。ただ、遠い山の巣で、飛べぬまま自分を待っているはずの、我が子への想いだけだったのだ。

「この子に会いたくて、それだけを支えに、鎖に耐えてきた」

その一言で、私はようやく悟った。人々が竜と呼び、獣と呼び、化け物と呼んで恐れてきたこの者の内側にあったのは、私自身が芽依に対して抱いてきたのと、寸分違わぬ親の情だったのだ。爪を剥き出しにしたあの日の諍いも、覚えていない娘の眼差しも、彼にとっては、我が子のもとへ帰るまでの、長い試練の一部でしかなかったのだろう。周りを取り囲んでいた若い衆たちも、いつしか棒を下ろし、粘土の欠片に刻まれた小さな爪痕を、黙って見つめていた。

私は棒を構えていた若い衆たちを下がらせ、代官の役人が駆けつけるより先に、巌に向かって深く頭を下げた。

「すまなかった。何年も、見て見ぬふりをしていた」

巌は答える代わりに、ただゆっくりと首を振った。責めるつもりはない、というふうに。

私は蔵から路銀を持ち出し、湊に停泊していた荷船の船頭に頼み込んで、巌を山裾の船着き場まで送り届けてもらう手筈を整えた。翼はまだ癒えず、自らの力で山まで飛び帰ることはできそうになかったからだ。船に乗り込む間際、巌は一度だけ振り返り、遠くに見える潮屋の紅白の幕と、その前に立つ花嫁姿の芽依を、長いあいだ見つめていた。それから、静かに一礼して、舳先の向こうへと姿を消した。

芽依は結局、その日の来訪者が誰であったのか、最後まで思い出すことはなかった。祝言はつつがなく執り行われ、彼女は若旦那とともに、廻船問屋へと嫁いでいった。祝いの席で見た異形の来訪者のことは、しばらく座興の種として語られたが、それもやがて人々の記憶から薄れていった。

それから幾年か過ぎた今も、私は時折、あの粘土の欠片に刻まれた小さな爪の跡を思い出す。巌が郷の山に無事たどり着き、あの仔がもう空を飛べるようになった頃、再び親子で連山の稜線を舞う姿を、遠い潮路の空に思い描くことがある。人の子との絆は忘却によって断たれても、竜自身の胸の内に秘めた親としての想いだけは、誰に忘れられることもなく、ただ静かに、確かにそこにあり続けたのだと、今の私にはようやく分かる。

秋が来て、潮路の湊にまた山の匂いが届くたびに、私は今も、店先の暖簾を一枚多く洗ってしまう。もう二度と、その匂いとともに彼が現れることはないと分かっていながら。

あとがき

ラビンドラナート・タゴールの『カブリワーラー』は、コルカタの商家に暮らす幼い娘ミニと、故郷に幼い娘を残して行商に来るアフガン系の行商人ラフムンとの、他愛ないながらも温かな交流と、時の経過による忘却、そして遠く離れた我が子への尽きせぬ愛情を描いた短編である。本作では、この「異郷から来た者と幼子との情愛」「投獄と幽閉」「忘れられた再会」という骨格を保ちながら、行商人を人語を解する若い竜に、幼い娘との情愛の証を、彼が我が子の爪痕を写し取った粘土の欠片に置き換えて翻案した。

原作が持つ、対アフガン系行商人への当時の社会的偏見という主題は、本作では特定の民族ではなく架空の「竜」という異形への恐れに置き換えることで、差別的な含意を避けつつ、「異なる者への誤解の先にある人間性の発見」という原作の眼目を保つよう努めた。潮路の湊という舞台、巌という竜の存在、芽依とその父の描写、諍いの経緯や台詞、粘土の爪痕という小道具はすべて独自に創作したものであり、原典の翻訳や逐語的な引用は一切行っていない。


本作はラビンドラナート・タゴール著『カブリワーラー』(https://www.gutenberg.org/files/33525/33525-h/33525-h.htm)を参考にした翻案作品です。

本作はラビンドラナート・タゴールの『カブリワーラー』を参考にした作品です。原典