竜は約束を違えなかった
貧しい百姓・弥平は、境界石の彼方に棲む老竜「野守」と、日の出から日没までの飛行で得られる土地の契約を交わす。竜は一片の嘘もつかず、ただ正直に時を告げ続けるだけだったが、際限なく広がる欲だけが、彼を破滅へと導いていく。
一 境界石の村
深沢村は、山と山とに挟まれた狭い盆地にあった。田は段々畑にせざるを得ぬほど痩せ、実りは年によってまちまちで、豊作の年でさえ蔵を満たすには程遠かった。それでも村人たちは代々そこに根を張り、隣人と畦を分け合いながら、慎ましい暮らしを営んできた。
村の西外れ、松林を抜けた先には、苔むした一本の石柱が立っていた。誰が刻んだとも知れぬその石は、ただ「境界石」とだけ呼ばれ、その向こうには見渡す限りの大草原が、ゆるやかな起伏を描きながら地平の彼方まで広がっていた。草原の奥深く、旅人でさえ滅多に踏み入らぬ場所に、一頭の老いた竜が棲んでいるという言い伝えがあった。名を「野守(のもり)」という。
深沢村の田は、代々の百姓たちが山肌を削るようにして拓いてきたものだった。石を運び、水を引き、痩せた土に幾世代分もの肥やしを鋤き込んで、ようやく米が実る程度の土地に仕立て上げてきたのである。それゆえ村人たちは、誰もが一坪の畦をめぐってさえ、真剣に言い争うだけの重みを持たされていた。土地とは、簡単には手に入らぬものであり、それゆえに何よりも尊いものだと、誰もが骨身に刻んで生きていた。
「野守様はな」――囲炉裏端で子供らに語って聞かせるとき、村の古老たちは決まってこう始めた。「太古の昔からあの草原の番人でな。恐ろしい牙も爪も持っておられるが、これまで一度たりとも人を襲ったことはない。その代わり、あの方は一つの掟だけを、何百年もの間、寸分違わず守り続けておられる」
その掟とは、こういうものだった。境界石のところで願い出た者を、野守は日の出とともに背に乗せて空へ舞い上がる。望むだけ飛び、望む場所に降り立ってよい。ただし、日没までにその者が自分の足で境界石まで戻り着けたなら、飛んだ範囲の土地はすべてその者のものとなる。戻れなければ、それきりである。
「爺様の代に、隣村の欲深い庄屋が挑んだそうだ」古老は声を低めて続けた。「見たこともないほど広い土地を望んで、日が暮れる前に戻れず、そのまま草原のどこかで果てたという。野守様は、庄屋を騙したわけでも、脅したわけでもない。ただ、決められた通りに飛んだだけだ」
弥平は、その話を子供の頃から幾度となく聞かされて育った。まだ十にもならぬ頃、祖父に連れられて境界石まで来たことがある。あの日、祖父は懐から粟餅を取り出し、石の根元にそっと供えた。
「野守様に挨拶をしておくのだ」祖父は言った。「あの方は嘘をつかれぬ。だが、それだけに、この掟に近づく者の心の底まで、否応なく映し出してしまわれる」
弥平は遠く霞む草原を眺めながら、その言葉の意味をよくは解さなかった。ただ、あの向こうに本当に竜が棲んでいるのだと思うと、子供心に胸が高鳴ったのを覚えている。それから幾度か、祖父の使いで境界石まで供物を届けるうち、弥平は遠目に、灰色の巨きな影が草原の奥でゆっくりと動くのを見たことがあった。それが野守だと知ったのは、もっと後になってからのことだ。
今では弥平も三十を過ぎ、妻のお滝と、七つになる息子の小一と、猫の額ほどの田を耕して暮らしている。実直な働き者ではあったが、心のどこかに、いつも小さな不満がくすぶっていた。
その年の秋、隣家の伊佐治との間で、長年曖昧にしてきた畦の境をめぐって諍いが起きた。伊佐治は「もとよりこの畦石はここにあった」と言い張り、弥平は「祖父の代にはもっと向こうにあったはずだ」と言い返した。二人は村役を呼んで幾晩も掛け合ったが、決着はつかず、結局は古い検地帳の記載に従って、弥平の田は三尺ほど狭められることになった。
「たった三尺の土地のことで、なぜあれほど骨を折らねばならぬのか」
その夜、弥平は囲炉裏の火を見つめながら、お滝に愚痴をこぼした。お滝は黙って繕い物の手を動かしていたが、やがてぽつりと言った。
「うちの田がもっと広ければ、こんな諍いも起きなかったでしょうにね」
小一が板間で独楽を回しながら、無邪気に口を挟んだ。
「父ちゃん、境界石の向こうの竜様のところへ行けば、広い土地がもらえるって、爺ちゃんが言ってたよ」
弥平は苦笑して息子の頭を撫でたが、その一言は、胸の奥にくすぶっていた小さな火に、確かに油を注いだ。
その夜、弥平はなかなか寝つけなかった。狭い田の畦を三尺奪われたことよりも、自分の暮らしがどこまでも小さく、心もとないものに思えてならなかった。土地さえ、もっと広ければ――その思いは、夜が更けるほどに、抗いがたい大きさで胸を占めていった。子供の頃に見た、草原の奥でゆっくりと動く灰色の影のことを、弥平は久方ぶりに思い出していた。
翌朝、弥平は誰にも告げず、境界石へと足を向けていた。
二 野守との契り
松林を抜けると、朝靄の向こうに苔むした境界石が見えた。その傍らに、体を丸めるようにして伏している巨大な影があった。近づくにつれ、それが幾重にも重なる灰色の鱗と、畳まれた翼を持つ、老いた竜であることが弥平にもわかった。
「久しいな、人よ」
野守は低く、しかし穏やかな声で言った。目を開けると、その瞳は驚くほど澄んでいて、暗い欲や企みの色は微塵も見当たらなかった。
「以前にも、この石まで粟餅を届けに来た子供がいたな」
弥平は驚いて竜を見上げた。
「あれは、私です。祖父の使いで」
「そうか」野守はわずかに目を細めた。それが微笑みに近いものなのか、弥平にはわからなかった。「あの粟餅は、確かに供えられていたぞ。あの子供が、こうして大人になって私の前に立つとはな」
その一言が、弥平の胸に不思議な温かさをもたらした。ここにいるのは、伝説の中だけの恐ろしい怪物ではなく、幼い頃から知らず知らずのうちに縁を結んでいた、一つの確かな存在なのだと思えたからだ。
「土地を求めて来たか」
「はい」弥平は喉の渇きを覚えながら頷いた。「これまで挑んだ者の話は聞いております。日の出から日没まで、あなた様の背に乗って空から見た地上に、私が望むだけ広く印をつけてよいと」
「その通りだ」野守は静かに言った。「だが、まずはよく聞け。私はこれまで、この掟に噓を混ぜたことは一度もない。これから飛ぶ間、お前が求める限りどこまでも飛ぼう。正午が近づけば正午だと告げ、日が傾けば傾いたと告げる。それだけは律儀に守る。だが――」
野守はそこで初めて、わずかに首をもたげた。
「戻るか戻らぬか、いつ引き返すかを決めるのは、お前自身だ。私はお前に代わって、その判断を下しはしない。それが私の役目であり、また私にできる全てでもある」
弥平は頷いた。単純な話に思えた。
「もう一つ」野守は付け加えた。「私が運べるのは、お前が空から選んだ地点までだ。境界石へ戻る道のりは、お前自身の足で歩き通さねばならない。それが、この掟の唯一にして最後の縛りだ。よく覚えておくがよい」
弥平はその言葉を、深く考えもせずに聞き流した。まだ日は昇ったばかりで、自分の足など問題にはならないと思えたからだ。
「では、始めよう」
野守はゆっくりと翼を広げた。弥平がその背に乗ると、鱗は思いのほか温かく、竜の息遣いには規則正しい静けさがあった。竜は音も立てずに舞い上がり、朝焼けに染まる草原の上を滑るように飛び始めた。
眼下には、これまで見たこともない広さの大地が広がっていた。ゆるやかに波打つ草の海、点在する灌木の茂み、遠くに光る川筋。弥平は最初、隣村ふたつ分ほどの土地でも十分だと思っていた。だが、飛べば飛ぶほど、より豊かに見える土地が次々と現れた。
「あの谷まで、行ってみてもよいですか」
「よい」野守は淡々と答え、方角を変えた。
谷を越えると、緩やかな丘陵地帯が広がっていた。土は黒々として、いかにも肥沃そうだった。
「あの丘の向こうまで」
「よい」
竜は一切の駆け引きも、勧めも、引き止めもしなかった。ただ求められた方角へ、求められただけ飛んだ。
三 広がる欲
正午が近づく頃、野守は初めて口を開いた。
「日は間もなく天の頂を過ぎる」
弥平は眼下の川べりに目をやった。豊かな水を湛えたその流れの向こうには、さらに広い平原が続いているのが見えた。
「あの川向こうまで行けば、水にも困らぬ土地が手に入る」
弥平は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。野守は何も言わず、ただ川を越えて飛び続けた。
川向こうの土地は、噂に聞くよりもさらに豊かだった。麦がよく育ちそうな平地の先には、材木に困らぬほどの森があり、その奥にはうっすらと白く光る塩の湿地まで見えた。
「あの森と、あの塩地まで手に入れば、村中の誰よりも豊かになれる」
弥平の声には、もはや抑えの利かない昂ぶりが滲んでいた。
「よかろう」
野守は方角を変え、なおも飛び続けた。竜の背に揺られながら、弥平はふと尋ねた。
「野守様は、これまで幾人もの人間をこうして運んできたのでしょう」
「数えきれぬほどにな」
「戻れた者は、どれほどおりましたか」
野守はしばし沈黙してから答えた。
「多くはない。ある者は、日輪が中天にある間に、わずかな土地で満足して戻った。慎ましい者だったが、その子孫は今も豊かに暮らしていると聞く。だが、そういう者はまれだ」
「戻れなかった者たちは」
「己の望みに、際限を見出せなかった者たちだ」野守の声には、責める色も憐れむ色もなかった。「私が誰かを騙して戻れぬようにしたことは、一度もない。皆、自分の望みだけで、引き返す刻を見誤ったのだ。私はただ、飛べと言われた方角へ飛び、時が経てば経ったと告げるだけだ」
その言葉には、幾百年もの間に見てきたことを、そのまま述べているだけの静けさがあった。弥平は一瞬、背筋に冷たいものを感じたが、目の前に広がる豊かな大地への欲が、その冷たさをすぐに押し流してしまった。
「私は違う。まだ日は高い。引き返す刻合いくらい、自分でわきまえている」
「そうか」野守はそれだけ答えた。裁くでもなく、諭すでもなく、ただそう答えただけだった。だが弥平には、その短い一言の底に、これまで数えきれぬ人間に向けられてきたであろう、同じ静けさが感じ取れた気がした。
「野守様は、寂しくはないのですか。この草原に、たった一人で」
竜はしばらく答えなかった。やがて、風の音に紛れるほど静かな声で言った。
「寂しいかどうかは、私にはよくわからぬ。ただ、こうして粟餅を供えに来た子供が、大人になってまた私の背に乗る。そういう巡り合わせを幾度も見てきた。それだけで、私にとっては十分な慰めなのかもしれぬ」
弥平は、その言葉に何か言葉を返そうとしたが、うまく言葉にならなかった。ただ、竜の背の温もりが、先ほどよりも少しだけ近しいものに感じられた。
「先の庄屋のことを、覚えておいでですか」弥平はふと尋ねた。
「よく覚えておる。彼の名は、確か太左衛門といった」野守は静かに言った。「あの者も、初めは隣村ふたつ分の土地で満足すると言っていた。だが、飛ぶうちに、望みは膨らみ続けた。私は、あの者が求めた通りに飛び、あの者が望んだ通りに時を告げた。それだけのことだ」
「その太左衛門殿は、どこで力尽きたのですか」
「あの塩の湿地の、もう少し先だ」野守は前方をわずかに顎で示した。「ちょうど、お前がこれから目にする景色の、すぐ手前あたりであろうな」
弥平は思わず息を呑んだ。だが、眼下に広がる景色の豊かさは、その話を聞いてもなお、彼の胸の高鳴りを鎮めるには至らなかった。むしろ、太左衛門よりも自分の方がうまくやれるという、根拠のない自負めいたものさえ湧いてきた。
塩の湿地を越えると、さらに遠くに、これまで見た中で最も美しい草地が広がっているのが見えた。そこには小さな泉まであった。
「あそこまで――あそこまで行けば、もう十分だ」
弥平は自分に言い聞かせるように呟いたが、いざその上空に差し掛かると、さらにその先にある小高い丘が目に入り、そこからならきっと村全体を見渡せるに違いないと思い直してしまった。
「あの丘まで」
「日は西へ傾き始めている」
野守は初めて、時刻の経過をやや強く告げた。だが、それは警告ではなく、ただの事実の報告だった。弥平ははっとして西の空を見た。太陽は確かに、先ほどよりも低い位置にあった。だが、まだ十分な高さがあるようにも見えた。
「大丈夫だ。あの丘まで行って、それから引き返せばよい」
野守は方角を変え、丘の上空まで飛んだ。竜の背に揺られながら、弥平の胸には、先ほどまでの温もりとは違う、焦りにも似た何かが芽生え始めていた。だが、眼下に広がる丘の向こうの景色が、その焦りをすぐにかき消してしまった。
四 陽が沈む前に
丘の上に降り立ったとき、弥平は自分がどれほど遠くまで来てしまったかを、初めてまざまざと思い知った。眼下に広がる大地は、これまで見た中で最も美しく、最も豊かだった。しかし、境界石は、はるか彼方に霞んで見えるかどうかというほどの距離にあった。
「日は、間もなく西の山際に触れる」
野守が静かに告げた。その声には、急かす響きも、責める響きもなかった。ただ、事実だけがそこにあった。
弥平の胸に、初めて本物の恐怖が突き上げてきた。
「戻ってくれ、野守様! すぐに、境界石まで戻ってくれ!」
「それはできぬ」
野守の答えは、これまでと同じ静かな声だった。しかし、弥平にとっては雷に打たれたも同然だった。
「私が運べるのは、お前が空から選んだ地点までだ。境界石へ戻る道のりは、お前自身の足で歩き通さねばならない。それが、この掟の縛りだと、初めに伝えたはずだ」
「そんな――そんな馬鹿な」
「私は嘘をついてはおらぬ。忘れたか、それとも、聞き流したか。いずれにせよ、掟は変わらぬ」野守の瞳に、初めのときと同じ澄んだ色があった。「もしも私がこのまま境界石まで運んでしまえば、それはお前一人だけに与えられる、掟にない特別な情けとなる。それでは、これまでこの掟に挑み、自分の足で歩き通した者たちにも、これから挑むであろう者たちにも、示しがつかぬ。私はそれをせぬ」
野守はゆっくりと丘の上に降り、弥平を地に下ろした。そこには、憐れみも、嘲りもなかった。ただ、契約が契約通りに履行されるという、揺るぎない事実だけがあった。
「行け」野守は最後にそれだけ言った。「日没までに、まだ間に合うやもしれぬ」
弥平は転がるように丘を駆け下り、境界石のある方角へと走り出した。
草原の草は、思っていたよりもずっと深く、足元に絡みついた。何度も躓き、そのたびに立ち上がった。息はすぐに上がり、喉は焼けるように渇いた。西の空は、刻一刻と朱に染まり、太陽は見る間に山際へと沈んでいった。
走りながら、弥平の脳裏には、お滝の顔と、小一の小さな手が浮かんでは消えた。独楽を回しながら「竜様のところへ行けば広い土地がもらえる」と無邪気に笑っていた息子の声も、耳の奥でこだました。三尺の畦のことで諍った隣人の伊佐治の顔も浮かんだ。あの時、なぜあれほどまでに、たかが三尺の土地に心を乱したのだろう。今この瞬間、弥平が何よりも欲しいのは、広大な草地でも、豊かな川でも、塩の湿地でもなかった。ただ、境界石まで無事にたどり着く、それだけだった。
塩の湿地を抜けるとき、足が泥にとられ、片方の草鞋が脱げた。拾う暇も惜しみ、弥平は裸足のまま走り続けた。足の裏に鋭い痛みが走ったが、それすら遠いことのように感じられた。空を仰ぐと、野守が音もなく上空を並んで飛んでいるのが見えた。運ぶことこそ叶わぬが、竜はただ黙って、弥平の走る姿を見届け続けていた。その眼差しには、急かす色も、嘲る色もなかった。ただ、掟の定める通りに、最後まで見守り続けるという意志だけがあった。
川べりに差し掛かると、朝には浅く見えた流れが、今はやけに深く、重く見えた。それでも構わず、腰まで浸かって渡った。冷たい水が体力を根こそぎ奪っていくのがわかったが、立ち止まる術はもはやなかった。
足がもつれ、肺が悲鳴を上げた。それでも弥平は走り続けた。遠くに、松林の輪郭が見え始めた。境界石は、まだそのさらに向こうだった。
太陽が山の稜線に触れ、赤い光が草原全体を燃え立たせるように染めていくのが見えた。弥平は最後の力を振り絞り、松林を突っ切った。息はもはや荒い喘ぎでしかなく、足はほとんど自分のものとは思えないほど重かった。胸の奥で何かが激しく脈打ち、視界の端がちかちかと白く霞んだ。
境界石が、目の前に見えた。
弥平は最後の一歩を踏み出し、震える手を石に触れさせた。太陽の縁が、ちょうど山の向こうに消えていくところだった。
「間に合った――」
その言葉を最後に、弥平はその場に崩れ落ちた。石に触れた手だけが、まだそこに残っていた。松林の陰から様子を見ていたお滝が悲鳴を上げ、村人たちが次々と飛び出してきたが、弥平はすでに、二度と目を開くことはなかった。
五 墓ひとつ分の土地
野守は、境界石の傍らに音もなく降り立ち、事の次第を静かに見つめていた。
「掟は、正確に果たされた」
野守は、集まった村人たちに向けて、静かにそう告げた。
「この者は、日没の前に境界石へ触れた。ゆえに、この者が空から選び、印をつけた土地は、すべてこの者のものとなる」
その広さは、村中の田畑を全て合わせたよりも、なお広大なものだった。村人たちはどよめいたが、お滝と小一は、遺体の傍らに膝をついたまま、何も言わなかった。
数日後、村役が改めてお滝のもとを訪れ、正式にその土地を受け継ぐ手続きについて尋ねた。お滝は長い沈黙のあと、静かに首を振った。
「その土地は、いりません」
「しかし、あなた方には正当な権利が――」
「あの人が本当に欲しかったものが、あんなに広い土地だったとは、私にはどうしても思えないのです」
お滝はそう言うと、小一の手を引いて境界石のそばに立った。息子はまだ幼く、事の全てを理解してはいなかったが、母の横顔だけは、いつまでも覚えていた。
村人たちは結局、弥平のために、境界石のすぐ傍らに、彼の体がちょうど収まるだけの穴を掘った。鍬を入れたのは伊佐治だった。三尺の畦をめぐって諍った当の相手が、誰に頼まれるでもなく真っ先に鍬を持ってきたことに、村人たちは驚きながらも、誰も口を挟まなかった。それは、弥平が生涯のうちに実際に必要としたであろう、ただ一つの確かな土地だった。野守が契約に従って認めた広大な草原は、その後、誰の手にも渡ることなく、ただ風にそよぐ草だけが年ごとに茂り、また枯れていった。
野守は、その一切を裁くことも、悔やむこともしなかった。掟を違えたのは弥平の欲であり、掟を守り抜いたのは野守自身であった。ただそれだけの、単純な事実がそこにあるだけだった。それでも、弥平が眠る土饅頭のそばを通るたび、野守はしばらくの間、そこに留まるようになった。誰に見せるでもなく、ただ静かに。
小一は長じて、村の百姓となった。ある年の秋、畦の境をめぐって隣人と些細な諍いが起きたとき、小一は自らそれを収め、争いの種になった土地の一部を、あっさりと隣人に譲った。そのことを不思議がる村人に、小一はこう答えたという。
「父が命懸けで教えてくれたことです。土地は、広ければ広いほどよいというものではない」
小一は、幾度か境界石を訪れ、野守にその話を語って聞かせた。野守はいつも静かに耳を傾け、多くを語ることはなかったが、ある時だけ、こう言った。
「お前の父は、掟を破ったのではない。掟の中で、望みの際限を見誤っただけだ。お前はその過ちを、確かに引き継がなかったようだな」
それから幾年もの間、深沢村では、子供らが境界石のそばで遊ぶたびに、こう言い聞かせられるようになった。
「野守様は、決して嘘をつかれぬ。だからこそ、恐ろしいのだ。あの方が違えるのは、決して約束ではない。人が、いつ引き返すべきかを見誤るだけなのだ」
境界石の向こうでは、今も老いた竜が、誰に求められるでもなく、ただ静かに草原を見守り続けているという。
あとがき
レフ・トルストイの短編「人にはどれほどの土地がいるか」は、欲深い百姓パホームが、遊牧の民バシキール人から「日の出から日没までの間に自分の足で歩いて囲んだ土地を、出発点へ戻れさえすれば安値でそのまま譲る」という破格の申し出を受け、際限なく歩き続けた末に力尽きて死に、結局は自分の亡骸を埋めるだけの土地しか必要としなかった、という皮肉な寓話である。
本作では、取引を持ちかけるバシキール人の代わりに、草原の奥に棲む老竜「野守」を配した。野守は人間のような欲も悪意も持たず、太古からの掟に従って、ただ正直に契約の条件を告げ、求められるがままに飛び、時刻の経過だけを律儀に報告し続けるだけの存在である。原作の核である「取引そのものは終始誠実に履行され、人間の欲望の際限のなさだけが悲劇を招く」という構図をそのまま活かしつつ、本作独自の要素として、主人公の幼少期からの竜との淡い縁(祖父の供物、竜が覚えていたという再会の場面)を加え、単なる契約相手ではなく、長い年月を経て静かに深まる関係性として竜を描くよう努めた。
原作の「自分の足で歩いて囲む」という条件は、本作では「竜が運べるのは着地点までであり、境界石までの帰路は自分の足で歩き通さねばならない」という契約の縛りに置き換え、後半の絶望的な帰路を、原作同様に人間自身の脚力と精神力だけに委ねる構成とした。また、原作にはない要素として、息子・小一のその後を結末に加え、父の破滅から教訓を引き継いだ次の世代の姿を描くことで、竜が最後まで裁くことのない「静かな契約の体現者」であり続ける余韻を残すよう努めた。舞台・人物名・地名・情景はすべて独自に創作したものであり、原文の翻訳や逐語的な引用は行っていない。
本作はレフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy)著「人にはどれほどの土地がいるか(Много ли человеку земли нужно?)」を参考にした翻案作品です。